母の言葉

「自分で自分を許せばいいの!道はそれしかない。

人にいろいろしてもらう必要はない。よく考えれば、すべてそう」

「人生長い。小さなことで、あーじゃこーじゃいうことない。
大きくかまえて暮らしていればいいの。
そんなことは人生の中から放り出しておけばいい。
元気で暮らせるというのはけっこうなことなんだから」

もやもやすることがあちこちであって、やや沈んで母に電話したら、上記の回答。
人生相談回答者なみの迫力でした。
要介護の母ですが、まだまだどうして、
人をこんなにも元気づけられるパワーがあるのですね。

My mother's words gave me courage and energy.

"You should forgive yourself. It is the only way.
You do not have to wait for what others do for you.
If we think things deeply, everything can be solved by your forgiving yourself."

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成功はゴミ箱の中に

気持ちが萎えて動けないときには、この本を読もう。
勇気が少しずつ戻ってくることを感じるだろう。

『成功はゴミ箱の中に』 
著者:レイ・クロック、ロバート・アンダーソン
出版社:プレジデント社
出版年:2007年(原著出版は1977年)

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いつか、誰かのために

いつか、誰かのために

たくさんの痛い想いに耐えたこと、
つらい経験を乗り切ったこと、
死ぬほどがんばったこと、
みんな、いつか、きっと誰かのためになる。

今はそれが誰のためなのかはわからないかもしれないけれど、
やったことは、この時空の中でちゃんと保存されて、
いつか、誰かのためになる。

だから、今はつらくても、
何も見返りがないように思えても、
失敗に終わってしまったとしても、
ひどい目にあっているように思えても、
ちゃんと、善いことはどこかで記憶されて、
いつか、誰かのためになる。

だから、善い気持ちを忘れないで。
あなたの中にある、光を見失わないで。

胸を突き刺す鋭い痛みも、
腹の中で何かがずしんと落ちるような鈍い痛みも、
いまそこで痛みに耐えているというそのことで、
耐える強さという記憶となって残っていく。

痛みがひいたときのひとときの平安、
誰かがちゃんと見てくれていたと思えたときの喜び、
長い苦労のあとに報われたときの涙、
そんなことすべてが、いつか、誰かのためになる。

だから、善く生きることをあきらめないで。
あなたの中にある、光の源にふたをしないで。
誰に頼らずとも、そこにあなたの、あなただけの力の源があるのだから。

あなたがいま耐えていることが
これから生まれてくる命のすべてに強さを与え、
あなたがいましている善きことが
世界中の命に善き力を与えることを忘れないで。

今、光が見えないような気がしても、大丈夫。
たまたま、今、雲がかかっているだけだから。

そうして、今のあなたの耐える力、
善きことをする力は、
みんな、かつてそうしてきた命からいただいたもの。

かつて誰かがしたことが、今のあなたの力になるように、
今あなたがしていることが、いつか誰かの力になる。

いつか、どこかで、誰かが、あなたがしたことから力をもらう。
それは、耐えがたい痛みに耐え、
つらきことを乗り越え、
善きことを成し遂げていく力となる。

そうして、それは、また遥かな未来のどこかで
また別の誰かのために、光となり、力となる。

いつか、誰かのために。
そう、あなたが望もうと望むまいと、
あなたの努力は、きっと、いつか誰かのためになる。

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スッポン料理-根津くらぶ

スッポン料理というものを根津くらぶで出す日があるとのことで、
友人を誘って、行ってみました。根津くらぶは私がお料理教室に通っているところです。

いつもは料理教室の生徒としてエプロン持参ですが、今日はお客様。
同じ場所でも、立場が違うと気分も違うわけで、
今日は少しだけお客様気分でゆったり会話を楽しむモード。

まずはビールでのどを潤します。

そして、美しく盛られた5つの前菜が出てきました。
煮こごり、ぬた、スッポンの肝、小さなイカなど。
写真右上の肝は、それは上手に(当然ですが)味をつけてあって、なんとも絶妙。
この黒いお皿は、先生がご自分でこねて作られたものだそうですが、
お料理がよく映えます。

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二品目は、茶わん蒸し。
この中央の黄色い粒粒は、スッポンの卵。
大きくなったらスッポンになる命を頂いてしまいました。合掌。。。
しかし、柔らかな茶わん蒸しの上に透明のあんがかかった中で
頂くその小さな命は確かにおいしいのでした。
あなたの分まで、私はがんばります、とスッポンの卵さんに誓いました。
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三品目は御造り。
いずれもお刺身としてはたいへんおいしいのですが、
本日はスッポン料理の日なので、あくまでも前座です。
こういうところにあまり気をとられてはいけません。
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四品目は、いよいよスッポンの真骨頂ともいうべきスッポン鍋。
一人分ずつ、小さな蓋付きの入れ物で出てきました。
個人的には、やはりグツグツいうお鍋のほうが、
おかわりもできて好きですが、
これはこれで上品でよい感じです。
焼いたお餅も、太い葱もとてもおいしくなっていました。
(やはり、上品な女性二人連れでしたから、ちょうどよろしかったかと)

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そして、五品目は、春の山菜の天ぷら。
ふきのとう、たんぽぽ、たけのこ、それに名前を忘れたのですがおいしい野の草。
(名前は友人が覚えていました。「しどけ」又の名を、もみじがさ、というそうです)

子供のころには、きっと理解できなかったこのおいしさ。
きれいな油でさらっとからりとあげてあるのがわかります。
富士山柄の小さなお皿にちょこんといれてある塩をつけていただくのも
またよいお味です。

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六品目は、焼き物。
スッポンの焼き物は、お好みでポン酢しょうゆにつけていただきます。
このスッポンの焼き物は、なんともいえない美味です。
根津くらぶのポン酢しょうゆは、いろいろなかんきつ類を使って作ってあって
とてもおいしいです。そして、料理教室では手が震えながら切る「超小口切り」にした
あさつき(だと思うのですが)がふってあり、それもまた風味を増してくれます。

スッポンの添え物にしてはおいしすぎる筍の焼き物。こちらはお味が
ついているので、そのままいただきます。

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それから、スッポンの雑炊におつけもの。
雑炊は大変においしく、スッポンは影も形もないのですが、
確かにその存在を感じさせるものでした。

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そして、最後にデザートの白玉ぜんざい。
いつもは、ここまでくると酔っぱらって写真を撮り忘れるのですが、
友人が「写真、写真」と思いださせてくれたので、最後まで撮影できました。
こちらは、甘すぎないぜんざいに、柔らかな白玉がはいった、後味のよいスイーツです。

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お付き合いいただいた友人のM子さん、ありがとうございました。
根津くらぶのやまだえつこ先生、スタッフののりさん、板前の方、おいしい料理をどうもありがとうございました!

M子さんが飲んでいるのはワインに見えますが、ワインではありません。。。。合掌。。。。
Wine

先生といっしょに写真をとりました。
カメのごとくにスローな料理の上達ぶりの私にいつも辛抱強くご指導いただき、ありがとうございます。
Sensei

命をかけて、そのおいしさを教えてくれたスッポンさんに感謝いたします。合掌。

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ヒューマンバリューシンポジウム‐大きな喪失を超えて

ブログの更新がなかなかできず、すみません。

書きたいことは山のようにあるのですが、、、。想いが大きすぎるのか、文才がないのか、なかなか言葉になりません。

しかしながら、各方面の活動は続けております。
宇宙関係のことも、近いうちに書きたいですが、今日は、「心の科学」のシンポジウムのご案内です。
(怪しいものではございません。念のため。。。)

「大きな喪失を超えて」という副題がついています。
アメリカ人のお医者様で僧侶になる道を選び、ダライ・ラマ法王に帰依して25年(もっとかもしれない)というバリー・カーズィン先生を中心として、講演やパネルディスカッションなどが行われます。

私は、4,5年くらい前から、この方が来日されるたびに開かれる仏典を読むクラスとか、瞑想リトリートとか、お遍路ツアーなどに参加させていただいております。

そのご縁で、パネルディスカッションの司会という立場でお手伝いさせていただきます。前回もお手伝いしたのですが、このパネルディスカッションは、参加者を巻き込んでの不思議な空間になるようで、何が飛び出してくるか、今回もとても楽しみです。

まだお席に余裕があるようですので、もしご興味がありましたら、ぜひお越しください。
当日受付もありますが、少し安くなるようなので、事前申し込みのほうがよいかなと思います。

ヒューマンバリューシンポジウム

会場がまた素敵なところなので、桜もちょうど見ごろと思いますし、ちょっと優雅な春の日曜日、ご一緒できればうれしいです。

国際文化会館
〒106‐0032 東京都港区六本木5‐11‐16
電話:03-3470-4611
http://www.i-house.or.jp/jp/ihj/access.html

都営大江戸線 麻布十番駅 7番出口より徒歩5分、
東京メトロ南北線 麻布十番駅 4番出口より徒歩8分、
東京メトロ日比谷線 六本木駅 3番出口より徒歩10分

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レイランド復活その2

レイランド復活の記事に、コメントをいただきまして、ありがとうございました。
小さな場所ですが、懐かしんでくださる方がいらして、うれしい限りです。

さきほど、お茶碗を片づけていたら、ちょっとしたことで、割れてしまいました。ああ、こういうこともあるのだなあと思いながら、「長い間、つきあっていただいてありがとうございました」とお礼を言って、割れ物ゴミとして出せるように包みました。

思えば、このお茶碗は、10年以上のおつきあい。気に入っていたので残念ですが、次のお茶碗との出会いが待っていると、前向きに考えることにいたします。

何かを失ったとき、次に入ってくるものの場所があいたのだと考えることもできますし、新しいものが入ってくるために、古いものが気をきかせて席を譲ったのだと考えることもできます。

いずれにしても、形あるものはいつか壊れるので、あまり気にすることはないかなと思います。

何事も常ならずと思っていれば、とても悲しいことやつらいことがあっても、「これはそのうち通り過ぎる」と思えますし、ものすごく嬉しいことがあったら、「これはそのうち消えていく」から、うんと楽しんでおこうと思えます。

気のもちようというよりは、気をもたない、執着しないという姿勢でいることが、楽に生きるコツかもしれません。

また、ときどき遊びにいらしてくださいね。


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レイランド復活

レイランドは、一昨年の12月から、わけあってしばらく閉鎖しておりました。

昨年3月には東北地方で大きな地震が起こって、津波が押し寄せ、多くの方々の深い悲しみに包まれた中で、レイランドの修復作業は後回しになっていました。

年が明けて、2012年。
レイランドもたくさんの贈り物をいただき、少しずつですが、エネルギーも満ちてきたようですので、復興計画を立てて、前に進んでもよい時期かと思います。

がれき処理もそろそろ終わりかけています。
心の中のゴミとがれきが、これほどまでに多いということに気づけたのは収穫といえば収穫でした。

2012年は、
志を高く、器を大きく、他を利することを考えて、前進していくつもりです。

そう決めたので、同じような方々にこれからたくさん出会うことになると思います。

「高い志、大きな器、利他」を目指して、日々努力されている新しい友人にお会いすること、古い友人が実はそういう方だったのだと再発見すること、そんな喜びがこれから待っていると考えると、楽しくなってきます。

鎧兜をとって、素の自分に戻れる場所、レイランドは復活いたしました。
これから、大きな変化と展開が起こっていくような予感があります。

楽しみです。


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KUKAIこぼれ話

12月11日、12日の二日間、UNISECのワークショップで香川大へ。
よいエネルギーをたくさんもらって帰ってきた。

香川大の衛星KUKAIに関わったという苧側正明(おがわ・まさあき)さんから、
KUKAIこぼれ話をうかがったので書いておきたい。

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生きとし生けるもの

7月の連休に、高野山へ。
チベット仏教に帰依して20年以上というアメリカ人のお医者様にしてお坊様であるDr. Karzinのリトリート合宿に参加。宿坊に宿泊して、早寝早起き、精進料理という、清く正しい生活。静寂な中での瞑想はめまぐるしい日常を生きている者にとっては、得がたい体験。

高野山自体も初めて訪れたが、すばらしい。観光地になっているとはいえ、やはり宗教の深さ、歴史の長さをあちこちで感じられ、ほこりまみれになっていた魂も少しはきれいになったような気がする。

弘法大師はまだ生きておられる。
高野山ではそう信じられている。
お住まいもあるし、日に二回、お食事も運ぶ。
それが1200年間も続いているということに、驚きを禁じえない。

お遍路さんの服などによく書いてある「同行二人」とは、いつも弘法大師がいっしょにいてくれる、という意味。
実家が真言宗なので、「南無大師遍照金剛」と唱えているが、これは弘法大師への崇敬を唱えているそうだ。知らないでいたことが、いろいろわかるのは楽しい。

仏教では、生きとし生けるものを大切にする。
虫も殺してはいけない。それはもしかしたら、過去のどこかであなたのお母さんだったかもしれない。そんな言葉がすっと入ってくる。

高野山でいたく納得し、すべての生き物に対しての愛を胸に感じて帰京。

ところがである。

そのような愛が、ホンモノの愛かどうかをテストされる機会はすぐにやってくるらしい。

高野山から帰り、東京の自宅で虫が大繁殖しているのを発見。
少し前から、虫が飛んでいるのには気づいていたが、蚊のようにさすわけでもなく、害はないと思い、放置していた。

しかし、天井にも壁にも床にも大量に虫がいる。ゴマのように小さいが、羽があって飛ぶ。

インターネットで調べると、「シバンムシ(死番虫)」らしい。なんという命名をされたのだろう。各地で悪さをしているらしく、たくさん書き込みがあって、すぐに情報が取れた。

ココアの缶の中で大増殖していたという書き込みがあり、よもやと思ってあけてみたら、

「ぎょ、ぎょえーーーー!」

というしかないような「虫の楽園コロニー」となっていた。

調味料類も全滅。七味やパプリカのびんにどうやって入り込んだのか、ここにもいる。小麦粉の類もお米も。。。

もったいないとは思いつつ、インターネットで調べると、成虫は殺虫剤等がきくが、卵や幼虫にはきかないというので、コロニーになりそうなものはすべて捨てる。

成虫を見つけたら、すべてつぶす。

一匹でも残っていたら、たぶんそこからまた増殖するのはまちがいない。

殺生はしないでおこうという自分の生きとし生けるものへの「愛」がいかに薄っぺらなものであったかを知る。

彼らにとっては、何も悪いことをしているのでなく、ただ「生きている」だけなのだ。もし、人間のような意識があったとしても、私に害を与えているつもりは毛頭ないだろう。

その行為が外で行われているのであれば、私はたぶんにっこり笑っていられるだろうが、自分の食物がやられているわけなので、黙ってみているわけにはいかない。

たぶん、そういうことだ。
自分に影響のある範囲内のことかそうでないかで、ものごとの色合いや意味合いは大きく違う。

生き方もいろいろ、仕事の流儀もいろいろ。
考え方は千差万別で、どれが正しくてどれが正しくないか、ということは判断が難しい。
立場によって、状況によって、環境によって、言うこともきっと変わってくるだろう。

無意味感にとらわれるのは、そういうことがわかってしまったときだ。
盲目的にまっすぐ突き進んでいるときは、ある意味では幸せであり、生きている充実感(らしきもの)も得られる。

しかし、それが幻想かもしれないと気づいたときに、そこからどう生きるか。

「生きとし生けるもの」への限りない愛情をもてるのは、自分に危害が及ばないときだけ、ということを身をもって知るとき、たぶん「菩薩への道」を歩き始めることができる。

出発点は、いつもいまあるところ、偽りのない自分、だ。

その自分も、「生きとし生けるもの」の一部であることに気づき、それが腑に落ちると、そこから殺してしまった虫たちへの愛情(らしきもの)も出てくるのかもしれない。虫との闘いを私はきっとやめられないだろうけれど。

合掌。

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三回忌

早いもので、父がこの世からいなくなってからもう2年がたった。
つい、この間のような気がしているのだが、2年もたったのだと改めて思う。

三回忌も無事に終了。
昨年は一周忌で、今年は三回忌。数字が飛んでいるように思うが、
そういうしきたりらしいので、素直に従う。

関西から親戚もたくさん集まってくれて、家で法要、お墓参り。
天気もだんだんよくなってきて、お墓では太陽がでて
ほんわかとした暖かさに包まれた。

その後、いっしょにお食事。今年はフランス料理。
めったにいただかないコース料理を、とてもおいしく頂いた。
たまには、こういうのもいい。

今は亡き人が、楽しいおしゃべりの場をとりもってくれる。
いつも会えない人たちと会わせてくれる。
そう考えると、今、父はここにいないのだけれど、
存在がまったく消えてしまったわけではないようにも思う。

父が亡くなった直後、「父の日」の広告を見るのはつらかった。
2年たつと、日にち薬がきいてきて、普通に見られるようになってくる。

2年前の6月3日に父は旅立った。
誰もがいつかは旅に出る。
いつだって、旅立ちの前夜なのかもしれないのだ。

そう考えると、本当に今日を、今この時間を、
大切に過ごしたい、幸福な気持ちで過ごしたいと
思えてくる。

いろんなことは、実に精妙につながりあって、
未来を紡いでいる。

幸せなめぐり合わせに感謝。

合掌。

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