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ネスカフェの広告

カンサット実験が終わって、帰国。
成田空港から京成電車に乗って、目を疑った。

カンサットだらけ。どっちを向いてもカンサットに見える。
砂漠の蜃気楼がここでも続いているのか、疲労がたまって幻影を見ているのか、目に入るものがすべてカンサットに見えてしまう。頭がおかしくなったのか。

目をこすって、もう一度見直した。
状況が理解できた。これは広告なのだ。
電車広告がすべて、「カンサット」なのだ。赤い缶と青い缶の二種類あって、赤い缶は、ロケットのごとく噴煙をはいて飛び立っている図、青い缶はパラフォイルをつけてゆらゆらとおりてきている図。

まさに、ネバダ州の砂漠で経験してきたものが日本の電車広告で再現されている。正確にいえば、カンサットはロケットから放出されるのであって、ロケットのように噴煙をあげて上昇するということはないのだが、気持ちとしては確かにそうなのだ。

コーヒーの缶の宣伝に、なぜカンサットが使われたのかよくわからないが、帰ってきたその日にカンサットが使われた全面広告の電車に乗ったという偶然に感謝しよう。

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月の光

米国ネバダ州にあるブラックロック砂漠でカンサットの打上実証実験に同行。

25日の夜、ナイトローンチを見に行く。午後8時から2時間の予定。

満天の星空を電飾ロケットが放物線を描いておりてくるさまは本当に美しい。
米国のアマチュアロケット家たちは、たいてい砂漠でキャンプしていて、自分のロケットを打ち上げたり、椅子にゆったりすわってのんびりと打ち上げを見たりしている。

去年とおととし、信じられないほど美しい星空を堪能していたので、今年も楽しみにしていた。しかし、砂漠について唖然とする。

まわりが明るいのである。砂漠を囲む山並みはくっきりと浮かび上がり、自分の影もはっきりと地面に映し出されている。人の顔も誰が誰だかわかるほどに明るい。

そして、満天の星のはずが、月の明るさに圧倒されてあまり見えない。特に南の空は壊滅的。天の川も影をひそめてしまっている。美しい満天の星を見て、流れ星でも眺めて魂のお洗濯をしようと思っていたのに残念。

月の美しさにみほれないといったら嘘になるが、満天の星を知っている身としては、月の明るさはそれを邪魔しているように思えてしまう。「過去にとらわれる」と、過去と比べてしまうから、「今現在」の幸せを享受できないのかもしれない。

月は地球の近くにあるというだけで、それ自体が光っているわけでもなく、大きいわけでもない。それなのに、光り輝く他の星たちを消し去ってしまうような光を発し、私たちを照らしている。

でも、じきに気づくのである。太陽の光と違って、太陽光を反射しているだけの月の光は明るく見えてもやっぱり暗い。太陽が星たちを消し去ってしまうのとはわけが違うのである。太陽の恵みと月の明るさは光の量が違うというよりは、その成り立ちの根本が違っている。

とはいうものの、月の美しさと月が作り出す世界のロマンチックな美しさには、感嘆するばかり。
「月の砂漠」という歌を思い出す。駱駝のかわりにロケットというのも一興。


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秋葉原

本日の月は、三日月。少し雲がかかっていたりして、ちょっと不安定。私の”月占い”は実にいいかげん。「いいかげん」というのは、「よい加減」というアクセントをつけて発音すると意味が変わってくる。「よい加減」は、先人の知恵であろうか。

秋葉原へ行った。ノートパソコンが不安定になったので、入院させる必要がありそうだった。このパソコンはTゾーンという店が、まだパーツ専門店になる前に、そこで購入したもので三年保証をつけてあった。この前のバイオも3年ぎりぎりで壊れてハードディスクを取り替えた。これはIBMのだが、やはり三年保証をつけておいてよかった。電話をしたら、修理してくれるというので、持っていく。店の感じはまったく変わっているが、活気のあるところはかわらない。眼光鋭く獲物を狙うパソコン自作少年少女たち(年齢にかかわらず)でにぎわっていた。

ロシア語がとびかう修理サービスカウンター。日本人の店員は日本語で説明し、ロシア人らしき男性はあまり流暢でない英語で話す。モノが目の前にあるので、それでもなんとか意思疎通はできたらしい。ロシア人は満足して帰っていった。店員さんはとても親切で、丁寧で気持ちのよい応対。パソコンの症状をしどろもどろに説明したら、わかってくださったようで、その後はてきぱきと書類作成。

パソコン入院手続きも無事に終了し、ビデオカメラを買いに別の店へ。映像はパワフルだと最近感じる。物語に映像は不可欠の時代になってしまったから、映像を自在に操れるようになりたいと思い、まずはビデオカメラ購入。いつか映画を作りたいな、などと見果てぬ夢を見つつ、「ハンディカム」を買う。こんなに小さいのに300万画素だという。技術革新にただ脱帽。これだけ買ったのでは結局使えないらしく、メモリだのバッテリーだの付属品もついでに購入し、ごつい三脚とかわいい指人形セットにテープなどをおまけにもらって、ホクホク帰る。

車に乗ると人が変わるという。温和な人がハンドルを握ると乱暴になったりするのだという。
カメラを持っても人は変わるのだと思う。撮影の威力は大きい。カメラを向けられて何も意識せずにいられる人は少ないだろう。ビデオカメラを持つと、人間の能力をはるかに超えた記憶力を身につけることになる。それだけ自分のものではない「力」を得るということだ。

コントロールできない力を持ってしまうことの悲劇。その力をあたかも自分の生来の力だと思い込んでしまうことの喜劇。そんな悲喜劇を私たちはいつも見ているし、自分でも演じているのかもしれない。


ビデオカメラごときで大げさだが、とにかく、「よい加減」に楽しむことにしよう。

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マティス展

土曜の昼下がり。上野の国立西洋美術館へ。
上野は美術・音楽・科学にふれる場所に加え、動物園まであって、実に楽しいところ。

今回のお目当てはマティス(Matisse)展。パリのポンピドーセンターに何度か行ったことがあって、そのときにマティスの色彩の美しさには魅了されていた。

彼の若いときから晩年の作品までが150点ほど集められていた。美しい絵の前に数分でも立っていると、自分の深いところで何かよい変化が起こっているという感じがする。本当は、2時間くらいじっとしていたいけれど、こんなにお客さんがいるところでは、それは人迷惑な話なので、がまんする。そのかわりに、何度も戻ってきては数分見る。

マティスの芸術は、試行錯誤の芸術。一枚の絵ができあがるプロセスに興味を持ち続けたマティスは、そのプロセス自体を残そうと試みている。自分が描いている絵を残したり、途中の絵を写真に残したりして。それを見ると、単純に見える彼の作品が、実は相当に複雑な工程を経てできあがっていることがわかる。

画家と対象物や人との対話、画家と作品との対話。そして、作品は変化し続け、作画を通して、画家自身の意識を超越したところにまで昇華する。その昇華した結果を味わうことのできる私たちは幸福である。

晩年の切絵のような作品。年をとって油絵を描けなくなったとき、彼ははさみを持って、助手に色を塗らせた紙をざくざくと切って、作品を作っていった。それがまたすばらしい。「ポリネシアの海」「ポリネシアの空」という連作があるのだが、真似をしようと思えば簡単にできそうなのだが、最初にこれを作り上げたのはすばらしいと思う。色彩感覚がなんともいえない。青といっても、さまざまな青がある。色作りからすでに芸術は始まっているのだろう。

展覧会に行って、いつも考えるのは、不謹慎ながら、「もし、一枚だけあげるといわれたら、どの絵をもらって帰ろうか」ということだ。今回は、迷った。一枚だけといわれるのはつらい。迷った末に、「赤い室内、青いテーブルの上の静物」を選んだ。青いテーブルの上に赤いりんごがおいてあるのがとてもかわいい。こんな絵と共に暮らせたら、なんと幸せなことだろう。絵はもらえるわけもないので、絵葉書を買う。

美しいものを見なければいけない。

三輪明宏さんがおっしゃっておられて、そのとおりだと思っていたら、脳科学の専門家である茂木健一郎さんが『脳の中の小さな神々』の中で、「美しいものを世のなかにあふれさせることが何よりも犯罪の抑止力になる」とおっしゃっておられた。大賛成。

世界は美しい。
そう思っていると、本当に美しい世界になっていくような気がしてくる。「世界は美しい」のであれば、たとえばごみが落ちていたら拾うなど、世界が美しくなるように行動するだろう。タバコのポイ捨てなど、決してできないメンタリティが育っていくのではないか。

と、ここまで書いて、気づいた。
まず、自分が美しくなる必要があるんじゃないの?部屋をお掃除して美しくする必要があるんじゃないの?

美しい世界作りは、まず手の届く自分の身のまわりから。
これはなかなか大変なことかも・・・。芸術への道は近くて遠い。


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朝日新聞書評

「上がれ!空き缶衛星」を朝日新聞の書評欄で取り上げて頂いた。評者は山形浩生さん。パワフルでユーモアのセンス抜群の方、とお見受けした。「憤り」の中に暖かなものを感じる。こんなふうに書いてもらえる本は幸せものだ。

「教育用核融合炉のある中学校は限られている」とか「遺伝子操作設備も一般家庭にはまだ普及してない」とか、ふんふんと読んでしまいそうになりながら、「えっ?」と我に返る。もう少ししたら、そんな時代が来るのかもしれないが、「教育用核融合炉」という発想がすごい。

直接存じ上げない方と、一冊の本を通して、ほんの少しだけれど知り合いになれることの不思議。決して出会うことのない道を歩いていると思っている人たちと出会う不思議さに似ている。

そしてまた、ごぶさたしている方との再会。この書評のおかげで、しばらくぶりの方からご連絡をいただいた。古い縁がまたつながってくることの不思議。

子供のころ、世界はいつも、不思議なことでいっぱいだった。

どうして花は咲くの?どうして空は青いの?どうして雪はふるの?どうして波はあるの?どうして太陽は毎日来るの?どうして?どうして?

大人になると、不思議なことは「「常識」になってしまう。現実的には、WHYよりHOWのほうがやりやすい。それでもふっとゼロになって世界を見渡せば、やはり世界は不思議なことに満ち満ちている。

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地球交響曲第五番

地球交響曲第五番を上映しているというので、行ってみた。前売り券を買いそびれてしまったせいで、当日券の列に並ぶ。前売り優先という主催者の意向だったので難しそうだったが、なんとか首尾よくすべりこむことができた。

時間になってもはじまらないと思っていると、龍村仁監督が出てきて、ちょっとしたご挨拶。かざらない人柄と服装。地球交響曲のこれまでの4作品はすべて見ているが、5番はちょっとした「同窓会」の趣もあり、89年に作り始めたというこのシリーズの「とき」の流れと「人」の輪を感じさせる。

今回の登場人物は、西表島で伝統の染色を復活させた石垣昭子さん、ブタペストクラブのアーヴィン・ラズロー博士、
自然なお産ができる「お産の家」を作った産婦人科医の大野明子さん。地球科学の研究者としてのキャリアを捨て、医者になったという。

他に、元宇宙飛行士のラッセル・シュワイカート氏とナンシー夫人、ガイア理論の提唱者であるジェームズ・ラブロック夫妻、ダライ・ラマ法王、心を病んだ人を受け入れる森のイスキア主宰の佐藤初女さん、野生チンパンジー研究家のジェーン・グドール女史、版画家の名嘉睦稔さん、トマトの大木を作った故野澤重雄さんとそのご子息。グランブルーの故ジャック・マイヨール氏、アラスカの動物写真家だった故星野道夫さんが、画面に登場。

出演者一人ひとりが本当に魅力的ですばらしい。分野は違っても、それぞれが輝いて生きているのがわかる。そして、うれしいことに、私は彼らが発する何かを頭でなく心でとらえることができたような気がしている。

「情報は時空を超えて、決して消え去ることはない」というラズロー博士の言葉。

この数日、私は頭痛と肩こりに悩まされ、どうにも調子が悪かった。ちょうど、ロシアの学校で人質事件が起こっていた3日間だ。情報がここまで伝わってきたのだろうか、あるいはシンクロしていたんだろうか、などと考えてしまう。当事者の痛みは想像することすらできない。ニュースを見た人たちの心の痛みはそれぞれに違うだろうが、少しはわかりあえるだろうか。本当に痛ましくて痛い。なぜこんなことを人間ができるのか。

そんな痛みに、映画の中のダライ・ラマの言葉がしみる。

「苦しみが慈悲の心を育てるんです」
「悲惨なニュースはすぐにニュースになって、思いやりのあることはニュースになりません。これは、悲惨なニュースは心に衝撃を与えるからです。思いやりはあたりまえのことだから、ニュースにならないのです。われわれは、思いやり(Compassion) があたりまえの社会に生きているのです。思いやりの心を深めていきましょう」

ノーベル賞を受賞された小柴先生が、ダライ・ラマに向かって言う。
「ダライ・ラマのようなお方でも、ビン・ラディンとお話が通じるとは思えないですが」と。

いつも仏像を携えている人と、銃を携えている人と。
鎧兜をとって、ゼロになったら話せるのかもしれないけれど、鎧兜が皮膚の一部になってしまっているような人はけっこうたくさんいる。ビン・ラディンになってはいなくても、仮面をかぶって普通の生活をしている人は少なくないだろう。それは自然にはがれるときがくるのだろうか。かさぶたのように、ぽろりととれる日がくるといいと思う。

ラッセル・シュワイカート氏とナンシー夫人が広島をおとずれるシーンがある。「サダコの折鶴」の前でたたずむ二人。ナンシー夫人の言葉がまたしみる。

「13万人という死者の数を想うより、サダコというたった一人の少女の希望や悲しみに寄り添うほうがすべての生命を思いやることに繋がると私は思います」

回り道はするけれど、紆余曲折はあるけれど、それでも、私たちは全体としてよき方向へ向かっているのだと信じたい。

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エルミタージュ

9月の声を聞く。夏ももう終わり。
これから秋の実りをうんと楽しめると思うとワクワクする。

大根おろしを添えたサンマ。スダチをきゅっと絞って、熱々をいただく。キノコご飯に栗ご飯。一年中出回るようになったけれど、それでも秋には特においしい。

その季節にしか味わえないもの、楽しめないものがある。夏も楽しかったが、秋は別の楽しみがある。冬は冬で、春は春でそのときだけの喜びがある。四季のあるところに住んでいることの醍醐味。

両国の江戸東京博物館へ足を運ぶ。
ロシアの巨大な美の殿堂、エルミタージュ美術館。

サンクトペテルブルグに行ってみたいと思うけれど、なかなかかなわないから、向こうが来てくれるのはありがたい。
エカテリーナ2世の美術品嗜好と、時のロマノフ王朝の権勢と溢れる冨がうまい具合にマッチして、この美術館のもとができたらしい。この豪勢な館に住んでいたというのだから、ため息が出る。

エカテリーナ2世の人生は驚愕に値する。
王位継承者である夫と結婚するが、その不甲斐なさと不誠実さに絶望する。そして、宮廷クーデターを起こし、自分が王位につくのである。自分が夫につぶされるか、自分と子供のために夫をつぶすかのどちらかしかないと考えた彼女は、後者を選ぶ。夫はクーデターの直後に不審な死を遂げる。

そんな彼女の治世は30年ほど続くのだが、その間ロシアの民はもっとも幸せだったという。もちろん、経済的な格差は歴然としていて、ロシアがいかに豊かな国で、芸術・文化も盛んだったとしても、その恩恵にあずかれない人が多数だったろうことも想像に難くない。

しかし、そこで思うのは、「民の幸せ」あるいは「人の幸せ」とは何だろうか、ということだ。
たとえば、サンマに大根おろしで、けっこう人は幸せになれるのではないだろうか。そこには、エルミタージュ美術館に展示してあるような「ウエッジウッドの食器」も「ダイヤをちりばめたかぎタバコ入れ」も「黄金の馬車」もないが、それでも人は幸せではないだろうか。サンマや栗ご飯がくれる幸せに感謝して生きるのも、「黄金の馬車」を夢見て生きるのも、それぞれだ。

でも、はっきりと言えるのは、エルミタージュの豪華絢爛な美、後世に伝えられる芸術は、エカテリーナ2世の文化・芸術への飽くことのない興味とふんだんに注ぎ込まれる投資がなければ生まれなかった、ということだ。

小さな幸せに感謝しつつ、それに執着をもたないことで、新しい世界へのドアが開くような気がしている。


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