マティス展
土曜の昼下がり。上野の国立西洋美術館へ。
上野は美術・音楽・科学にふれる場所に加え、動物園まであって、実に楽しいところ。
今回のお目当てはマティス(Matisse)展。パリのポンピドーセンターに何度か行ったことがあって、そのときにマティスの色彩の美しさには魅了されていた。
彼の若いときから晩年の作品までが150点ほど集められていた。美しい絵の前に数分でも立っていると、自分の深いところで何かよい変化が起こっているという感じがする。本当は、2時間くらいじっとしていたいけれど、こんなにお客さんがいるところでは、それは人迷惑な話なので、がまんする。そのかわりに、何度も戻ってきては数分見る。
マティスの芸術は、試行錯誤の芸術。一枚の絵ができあがるプロセスに興味を持ち続けたマティスは、そのプロセス自体を残そうと試みている。自分が描いている絵を残したり、途中の絵を写真に残したりして。それを見ると、単純に見える彼の作品が、実は相当に複雑な工程を経てできあがっていることがわかる。
画家と対象物や人との対話、画家と作品との対話。そして、作品は変化し続け、作画を通して、画家自身の意識を超越したところにまで昇華する。その昇華した結果を味わうことのできる私たちは幸福である。
晩年の切絵のような作品。年をとって油絵を描けなくなったとき、彼ははさみを持って、助手に色を塗らせた紙をざくざくと切って、作品を作っていった。それがまたすばらしい。「ポリネシアの海」「ポリネシアの空」という連作があるのだが、真似をしようと思えば簡単にできそうなのだが、最初にこれを作り上げたのはすばらしいと思う。色彩感覚がなんともいえない。青といっても、さまざまな青がある。色作りからすでに芸術は始まっているのだろう。
展覧会に行って、いつも考えるのは、不謹慎ながら、「もし、一枚だけあげるといわれたら、どの絵をもらって帰ろうか」ということだ。今回は、迷った。一枚だけといわれるのはつらい。迷った末に、「赤い室内、青いテーブルの上の静物」を選んだ。青いテーブルの上に赤いりんごがおいてあるのがとてもかわいい。こんな絵と共に暮らせたら、なんと幸せなことだろう。絵はもらえるわけもないので、絵葉書を買う。
美しいものを見なければいけない。
三輪明宏さんがおっしゃっておられて、そのとおりだと思っていたら、脳科学の専門家である茂木健一郎さんが『脳の中の小さな神々』の中で、「美しいものを世のなかにあふれさせることが何よりも犯罪の抑止力になる」とおっしゃっておられた。大賛成。
世界は美しい。
そう思っていると、本当に美しい世界になっていくような気がしてくる。「世界は美しい」のであれば、たとえばごみが落ちていたら拾うなど、世界が美しくなるように行動するだろう。タバコのポイ捨てなど、決してできないメンタリティが育っていくのではないか。
と、ここまで書いて、気づいた。
まず、自分が美しくなる必要があるんじゃないの?部屋をお掃除して美しくする必要があるんじゃないの?
美しい世界作りは、まず手の届く自分の身のまわりから。
これはなかなか大変なことかも・・・。芸術への道は近くて遠い。
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