読売新聞書評
少し前になるが、読売新聞書評に「上がれ!空き缶衛星」を取り上げていただいた。評者は佐倉統さん。ちょっと照れることが書いてあって、赤面しつつ、感謝。書評にも人柄があらわれるらしい。メールを送ったら、お返事をいただけて、またまた感謝。
彼の「ミーム」論については、私はまだ理解への途上にあるので何もいえないけれど、「ミーム」というものに、最近ちょっと興味を持っている。
UNISECは技術開発・人材開発に加え、アウトリーチを柱の一つとして活動している。この「アウトリーチ」という言葉が曲者である。これに相当する日本語は存在しない。だから、広報活動や教育活動など外に向けたすべての活動がその言葉で言い表されてしまうことが多い。意味がよくわからないカタカナ言葉は便利なのである。
アウトリーチは価値観を伝えるもの、と私は考えている。もっとふみこんでいえば、「ミーム」を拡散するもの、といえないだろうか。活動を通して、知識や技術だけでなく、たとえば人生に対する姿勢とか、失敗したときの態度とか、そういったものすべてが伝えられる。
スーザン・ブラックモアの「ミームマシーンとしての私」はなかなかおもしろかった。多数のミームが私の脳の中で場所のとりあいをし、生存競争をはかっているという考えからすると、いったい「私」が考えていることというのは、あるのかないのか。「私」が決めているのでなく、強い勢力を持ったミームが私に決めさせているのか。映画を見ても本を読んでも人と話しても、新しいミームが私の脳にどんどん飛び込んできては居場所を確保したりあえなく消えていったりしているらしい。
最近のミームくんたちの中でちょっと心に残って(つまり、ミームに居場所を提供して)いることがある。
「すべてはpreparation」だということ。すべては次にくる未来のための準備だということ。そしてその「未来」がきたら、それはまた次なる未来の準備であって、終着点というものはないのだから、常に動き続けている。
諸行無常。
昔の人は本当にいいことをいう。新しいミームがどれだけ生成複製されて広まっていっても、残るものは残る。人が幸せに生きられるようなミームに肩入れしたくなる。でもそれがどんなミームなのか判断できるのは誰なのか。終わりのない問いのループをぐるぐると回りながら、そのときそのとき最善と思う決断を下して生きている。
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