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母の智恵

よかれと思ってしたことが裏目に出てしまったり、一生懸命やったつもりなのに、どなたかの気分を害してしまうことがある。よくあるわけではないが、たまにある。

そういうとき、けっこう落ち込むわけであるが、どうやってそこからはいあがるか。

母に電話をして、そういったことをぐずぐずと話していたら、明快な答えが返ってきた。

「そんなの、いつまでもひきずってたってしかたないでしょ。さっぱり忘れて、前へ行くのよ、前へ」

「忘れるって、どうやって忘れるの?」

「次のことをするのよ。忘れようと思うとそこにとらわれるから、忘れようとしないの。山積していることがあるでしょ。それにどんどん手をつけていけばいいのよ。前へ行けば、自然にアタマから消えてしまうから」

ふーむ。なるほど。
前へ、ね。

こういう智恵を愛を持って言ってくれる人がいてくれるのは、たいへんありがたい。
けれど、彼女といられるのも、たぶんそんなに長くはない。
いつまでも同じ状態でいることはないのだし、いつか別れはやってくる。

誰とも実はそんなに長くは、いっしょにはいられないのだ。

だからこそ、変なところでひっかかっていないで、前へ進むことが大切なのかもしれない。
一瞬一瞬を大切に、そしてどの一瞬にもとらわれず、いつも前へ進もう。

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宇宙活動法パブコメへの回答

税理士法人の方から聞いた話。

外国人に給料や報酬などの支払をすると、支払った側が20%の源泉徴収をしなければならない。日本に居住して1年以上たっていれば、普通の税率になるが、1年未満だと、金額にかかわらず、20%の税金を納めないといけない。そういうふうに決まっているそうだ。

その「決まりごと」が現実世界でどんなことを引き起こしているのかを聞いて、驚愕した。

新聞配達をしながら日本語学校に通っている留学生の月給が8万円だったとする。
日本に来て1年未満だったら、おさめる税金は月額1万6千円。
20%の決まりごとを守るとこうなる。

新聞配達店の店主が、留学生をかわいそうだと思って源泉徴収をしないとどうなるか。結局店主が税金を払わねばならない。

慣れない外国で、雨でも雪でも朝早く起きて、新聞配達をして、それから日本語学校へ行って日本語を学ぶ。帰ってきてから、今度は夕刊を配る。そうして稼いだ生活費の2割が税金としてとられる。通常であれば、ほとんど税金はかからない収入額だ。確定申告すれば戻ってくるといっても、お金が必要なのは1年先でなくて、今だろうし、確定申告をすることも留学生にとっては相当にハードルが高いだろう。

なぜ、こういうことが起こってしまうのだろうか。

「決まりごと」がそういうケースを想定して作っていないところに問題があるのかもしれないし、決まりごとに例外を認めないしゃくし定規のところがよくないのかもしれない。一つの決まりごとを、すべての人に一律に適用しようとする発想がそもそも現実にはあわないのかもしれない。

ということを考えてきて、今作られようとしている宇宙活動法も、同じようなことになるかもしれないと心配になってきたので、ここで書いておきたい。

宇宙活動法の中で、私が一番心配しているのは、既存の大企業や国による宇宙開発活動と、新規参入するベンチャー企業や大学などの宇宙開発活動を、「打ち上げ事業者」という一言でくくって、同じように規制しようとしているところである。

宇宙活動法中間報告とりまとめに対して募集したパブリックコメントへの回答が公表されているので、紹介しておく。以下からダウンロードできる。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/utyuu/index.html

昨年11月に最初の回答案が宇宙活動法ワーキンググループののメンバーに回ってきたとき、たぶんほとんど全員がそうしたと思うが、私もコメントを送った。いくつかは反映していただけたようだが、まったく反映されていないものもある。もっとも反映してほしかった部分は反映されていない。特に以下の部分である。

コメントの多くは、この宇宙活動法のもとでは中小企業や大学、異業種などが宇宙開発に参加するのは、ますます難しくなるだろうという懸念を表明しています。これほどたくさんの方が同じような意見を出されるということは、大企業も中小企業も大学もすべて一律に取り扱うことが是であると方針に反対である人が多いということを示していると思います。法律を決めてしまってから、運用上でいろいろやっていきましょうといっても、今いらっしゃる理解のある方々は異動でいなくなってしまうわけですから、法律の条文だけが残ります。大企業であれば、「霞が関要員」を作って、日参することも可能でしょうが、中小企業や大学ではそのようなことは無理です。ですので、もっとわかりやすく、もっと透明性を高くして、「大企業はもちろん、中小企業や大学も宇宙開発をしている元気な日本」を法律が守っている、というくらいの法律を作っていただきたいと思います。

私はこのワーキンググループがはじまるときに、「世界中の国がこの法律を翻訳して自国の法律の参考にしたくなるような、すばらしい法律を作ってほしい」と思って参加したのであり、その気持ちは変わっていない。法律を読んだら、みんながやる気になるような法律がもしもできたら、嬉しいではないか。

国というのは、そこに住んでいる人とほぼ同義であると私は思っている。よく、「国が悪い」というような言い方をすることがある。私自身もそんなふうに言ってしまうこともあるけれど、自分はその国の一部であるという認識を忘れてはいけないと思う。何もしないでいて、政府が悪い、国が悪いといっても、何の解決にもならない。誰が悪いかを決めるのでなく、どうやればよくなるかを考えるほうが、私の好みには合う。

国の法律は、住んでいる人のルールになる。いったんルールができると、その思考方法から離れるのは難しい。すべての仕組みがその型にはめられて決められてしまうからである。だからこそ、最初のルール作りをしっかりやることが大切だと思う。

「決まりごとだから」といってすませるのでなく、その決まりごとを作るのは何のためなのかを一人ひとりがよく考えて、どうしたらよくなるのか、智恵を絞っていければ、と思う。

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東京根津 下町の晩ごはん

私の通っているお料理教室「根津くらぶ」の山田えつこ先生が、最近本を出されたので、ご紹介しておく。

「東京根津 下町の晩ごはん」

先日は、ここにお客さんとしてうかがって、たいそうおいしいディナーを堪能させていただいた。春の前菜だけ、写真を撮った。宝石のような煮こごりがかかっていて、それをからめていただく。つくしんぼまで入っていて、春らしく美しい。

Zensai_s

ひとつひとつの料理は、すべてすばらしくおいしい。最後のお味噌汁が絶品。
確かに「下町の晩ごはん」風で、大根とあぶらげが入っているのだが、これが胃を通してハートがあったかくなるようなおいしさ、なのである。恐るべき味噌汁!である。

そこのお味噌は、やはり根津にある「秋田屋」さんで売っているとのことで、さっそく購入。500gで390円。根津にはいいお店がたくさんある。

そんな根津にあこがれて、ネットでいろいろ調べているうち、この「根津くらぶ」を知って、アルバイトしたいと電話してきたというかわいらしい若い方がいらっしゃる。麻南美(まなみ)さんというお名前。カメラを向けたら、照れまくり。「先生もいっしょでなきゃ」というのを無理やり撮影。ただいま、お店でアルバイトしながら、料理教室初級クラスで料理の勉強も始めたとのことだから、将来が楽しみ。心がこもったおいしい料理の作り手は、多ければ多いほうがいい。

Newface

本日の料理教室は、ホタテと菜の花の昆布締め、マスの焼き物、マスのアラのお味噌汁、筍と若布とタラコの焚き合わせ。
March

自分も作る側に入っていると、お客さんとしていただく料理とは何かが違う。どちらもよいが、確かに何かが違う。この質的な違いは、何なのだろう。これは、たぶん何かの大きなヒントになりそうだ。

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エジプトと南アフリカ

先月、エジプトと南アフリカへいってきた。

エジプトの話は、マイコミジャーナルに書かかせていただいたので、ここでは、こぼれ話を書いておこう。

空港からホテルまで、公共のバスで向かう。
お値段は1エジプトポンド。つまり、16円くらい。

バスをおりてからホテルまで荷物をガラガラとひっぱって持っていく。このホテルは一泊2万円以上する高級ホテル。このアンバランス感が、そのままこの国の現実なのだと思いながら、ホテルのフロントへ。

「あなたの部屋はキャンセルされている」といわれ、愕然。旅行社に事前に支払っているのに、キャンセルするはずがないだろうと思いつつ、日本の旅行社に電話する。担当者は不在で調べるとのこと。

ほぼ24時間のフライトの後、早朝についてほっとしているところにこれだ。午前中にミーティングもセットしてあるのにどうするんだろうと思いながら、フロントで大騒ぎしていたら、スイートルームに通された。結局、3日間、そこに泊まった。苦あれば楽あり、だ。

南アフリカの話もいろいろあるので、機会をみてアップしたい。

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見よ、聞け、そして言おう

「見ざる、聞かざる、言わざる」は、生きるための知恵。

見てしまったり、聞いてしまったら、言わないでいることは難しい。
言ってしまえば、何かに巻き込まれる。ものいえば唇寒し、ということが世の中には多い。言わないでいるのが一番で、言いたいことが出てくるようなことからは目をそむけ、耳をふさぐのがよい、という生き方は決して非難されるべきではないし、実際悪くない。

けれど、死んだ魚のような生き方を自分がしたいかどうか、ということは別問題。

憤るのは「息が通ること」。つまり、解放されるということだ。
見たり聞いたりして、憤りを感じることが多い人は、たぶん、解放に向かっている。解放は快方にも通じる。
憤るのは自然の感情であり、おさえるべきではないし、完全におさえこむことはできない。

そのときに重要なのは、何に対して自分は憤っているのかをクリアにすることだ。
憤っている対象は、実は自分であることも多い。
結局のところ、憤ることが起こった原因に、自分の意思決定は何らかの形で関係している。そうすると、憤る対象は自分になってしまう。憤れば憤るほど苦しくなる。その落とし穴からはいだすには修練が要る。

客観的な事実を羅列していったときに、ネガティブな感情が出てくることがある。そのときに、感情をごまかすと、「息が通る」チャンスを失う。そればかりか、状況を改善するヒントを得るチャンスも失ってしまう。

憤るのは重要なことだ。
憤りは飛び出すためのエネルギーをくれる。単なる怒りとは少し違う。
短いスパンでは痛い思いをするかもしれないけれど、長期的にはきっとよい結果につながる。

ごまかさず、しっかり目をあけて見て、人のいうことに耳を傾けよう。
そして、痛快なほどに憤り、自分の中にしっかり息を通して、借り物でない自分の声でものを言おう。

見よ、聞け、そして言おう。


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