成功はゴミ箱の中に
気持ちが萎えて動けないときには、この本を読もう。
勇気が少しずつ戻ってくることを感じるだろう。
『成功はゴミ箱の中に』
著者:レイ・クロック、ロバート・アンダーソン
出版社:プレジデント社
出版年:2007年(原著出版は1977年)
気持ちが萎えて動けないときには、この本を読もう。
勇気が少しずつ戻ってくることを感じるだろう。
『成功はゴミ箱の中に』
著者:レイ・クロック、ロバート・アンダーソン
出版社:プレジデント社
出版年:2007年(原著出版は1977年)
自分の殻がコロンととれるような本があった。たまたま殻がとれる時期(つまりは、古い自我と思っていたものが破壊される時期)だったのかもしれない。
「さあ、才能に目覚めよう」
(マーカス・バッキンガム、ドナルド・クリフトン著、日本経済新聞社)という本で、この本を購入すると、ネットで「強み分析」(35分間で200問くらいに答える)へのアクセス権をもらえる。
(本を買わないと、できないようになっているようで、なかなか賢い販売戦略)
この本で何がよいかというと、
「弱みを克服することでは最高のパフォーマンスはできない」
「強みを生かせば、最高のパフォーマンスが楽にできる」
「人は変わらない」
ということを徹頭徹尾言い切っていること。
人は努力で変われるのだ、というのは幻想だということをここまではっきり言ってくれると、気持ちがよいし、実にさっぱりとする。
そして、「才能」は、「無意識に繰り返される思考、感情、行動のパターン」なのだそうだ。
たとえば、自分より幼い子供たちと遊んであげるのが好きな人と、年長者といっしょにいるのが好きな人では、その「才能」が違っている。その才能が喜ぶような場所に身をおくべし、ということである。幼い子と遊んであげるのが才能なのに、気難しい人たちの顔色をみてばかりいないといけない職場にいたら、その人のパフォーマンスはあまりすぐれたものにはならないだろう。そして、とても大変な思いをして、時には病気になるかもしれない。
この分析をやってみて、いろいろと心が軽くなることもあり、発見することもあり、驚いたこともあった。
自分は、これまでどれほど「がんばって、無理して、努力して」、自分にはむいていないことを一生懸命やってきたのかということがわかるのは、ある種の癒しである。
自分に向いていることは、「苦労なくできる、やっていて楽しい、時間を忘れるくらい」なのだそうだ。
これからは、自分の才能を生かす方向で軽やかに生きていこう。
そして、他の人にもそうしてほしい。
そうすれば、「あー、自分の力が生かされている、発揮できている、嬉しい」と思って生きる幸せな人が増えていく。
自分が幸せで、まわりも幸せだったら、そんな素敵なことはない。
さあ、自分の本当の才能に目覚めよう!
風邪をひくときは、体が変わるとき、すなわち意識が変わるときであったりすることもある。だから、強烈なショックを受けると、熱を出したりする。
一年で一番よい季節ではないかと思うこの1週間を風邪で寝込んですごしてしまったが、遠因として考えられるのは、この本である。
この本を読むと、たぶん間違いなく、熱が出る。日ごろ、何にも動じない、感じないという鈍い精神生活をすごしていれば、そういうことはないかもしれないが、悲しい映画を見たら涙が出るという普通の生活をしている人であれば、この本を読むと、心の奥のほうで何かが動く。
アウシュヴィッツでのあまりに強烈な体験談が、「体験者の声」として、インタビュー形式で語られる。
あの地獄のような体験をくぐりぬけて、生き抜いた人たちの声は、これが初めてではない。
「夜と霧」のヴィクトール・フランクル氏をはじめとして、いろいろな方がいろいろな立場でその耐え難い痛みを何とか言葉にしている。
しかし、この本は別格である。
それは、著者であるシュロモ・ヴェネツィア氏は、「特殊任務」をしていた側の人間だからである。
ユダヤ人として捕らえられた中で、屈強な体力のありそうな男たちは、特別な任務を与えられた。
(この後は、強烈な内容をそのまま引用したりしているので、読みたい方のみ続きをどうぞ)
すばらしい本に出会った。
言葉の力はすごい。いろいろあると、こういう言葉がとてもしみる。
この本は、著者が大学生のときに、高校生のために書いた「逆説の十か条」が、いつしか誰の手によってか、インドの孤児院の壁に書かれて、マザーテレサの目にとまったということがまた著者に伝わった、といういわくつきのもの。
ケント・M・キースの祈り逆説の十カ条
1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。2 何か良いことをすれば、
隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。
それでもなお、成功しなさい。4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。5 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。
それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。6 最大の考えをもった最も大きな男女は、
最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
それでもなお、大きな考えをもちなさい。7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていない。
それでもなお、弱者のために戦いなさい。8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。9 人が本当に助けを必要としていても、
実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい。10 世界のために最善を尽くしても、
その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。ケント・M・キース : 著 : 「それでもなお、人を愛しなさい」 : 早川書房
無条件にすべて同意するというわけではない。
たとえば、2など、「隠された利己的な動機」がゼロという人がいたら、それは神様だろうと思う。自分で意識もしていないことも多い「利己的な動機」は、必ずあると思ったほうがいい。だから、自分が何かするときには、その内なる動機がいったい何に根ざしているのかをしっかり見つめ続けることが重要だと思う。たとえば、誰かを見返してやりたいなどという気持ちがあるとしたら、それは十分に利己的な動機である。
けれど、どんな結果になろうとも、自ら信じることをしなさいというメッセージは、あたりまえのことだけれど、いい。あたりまえのことがあたりまえになされないことはよくある。世の中は狂っているが、それに不平を言うのでなく、自分がよいと思うことをやりなさいというエールはいい。
問題は、たぶん、「自分がよいと思うこと」と「他人がよいと思うこと」はコンフリクトすることが少なくないということである。ミクロ的にみればよいことが、マクロ的にみたらあまりよくないかもしれないこともある。オゾン層を破壊したフロンは、当初は害のないすばらしい物質だと思われていたが、あとになって、地球規模で害のあるものだということがわかった。
しかし、そのようなことは問題にすまい。100%よいと思ってやっていたことは、それはよくないとわかったときにすっぱり変えることができる。あまりよくないかなと思ってやっていたことは、よくないとわかっても、なかなかやめられない。
やるなら、それはよいことだと信じてやることだ。そして、よいことだと信じられることを、やることだ。
「甘えの構造」と「続・甘えの構造」を読んだ。
前者が書かれてから30年後に書かれたのが後者。
1950年代にアメリカへ行ってカルチャーショックを受けた精神科医、土居健郎氏が、「甘え」という日本語に特有の言葉に注目して、自身の研究と広くて深い読書と思索と思惟を経て書いたもの。
「甘え」とか「甘える」という言葉は、英語の語彙にはない。
ちょうど、プライバシーとかアイデンティティという言葉が日本語の語彙にないのと同じ。
国境はないとはいっても、住んでいるところによって、ものの考え方は大きく違う。
こんなに感性や考え方が違う人たちがいっしょに仕事をしたり、友達になったり、結婚したりしている現実に改めて驚く。
著者は、「甘え」は悪くはなく、信頼関係を作り、精神的に発達するために必要だという。しかしながら、大人になって、「甘えている」という自覚がないままにそうしているのは問題、とも言っている。
「健康な甘え」が否定されていったために、「病的な甘え」がはびこるようになったと著者は指摘する。
「病的な甘え」が「健康な甘え」を駆逐したのかもしれないのだが、そのあたりの因果関係は不明。
この本を読んだのは、別の必要性があってのことなのだが、UNISECの存在意義を最近考えていたところだった私に、大きなヒントになることがあった。
70年の安保闘争や当時の若者の体制への反抗について、筆者は以下のように洞察する。(『「甘え」の構造』229ページ)
大体青年が自らの力を過信するに至れば、彼らが攻撃している勢力者たちともはや区別がつかなくなるではないか。彼らが真に必要とするものは、それによって自らの限界を知ることができる力試しである。しかし、今日の社会で誰がその機会を青年に与えられるのであろうか。誰が彼らにとって父親となり、権威と秩序の意味を新たに説くことができるのであろうか。見渡したところ、大学教授にも、政治家にも、思想家にも、宗教家にもいない。この点で現代はまさに絶望的である。事実は一にぎりの青年たちだけがアナキーなのではなく、時代全体の精神がアナキーなのである。であるとすると現代の青年はいつ果てるともわからぬ力試しに、まだ当分は明け暮れせねばならぬのではなかろうか。
筆者は、桃太郎の寓話を例にとりながら、論を展開していくのであるが、安保闘争のころからすでに40年近くがたっており、現在の日本の状況は、「戦う相手、乗り越えるべき存在」に関する議論さえなくなった世界になったといえるかもしれない。
成長のためには、力試しの場、限界を知る場が必要。
UNISECや学生の宇宙プロジェクトが提供しうるのは、まさしく、そういう場ではないだろうか。
相手が必要なスポーツやゲームとは違い、自分たちがどれだけがんばったかによって、衛星もロケットも成否が決まる。相手を倒さなくとも、自分が勝つことはできる。全員が「勝つ=成功する」ことだって可能だ。その一方で、自分の努力とは無関係のところで、失敗も起こり、すべてが無に帰することもある。
それでいて、妙な平等主義とも違うのは、低きにあわせる必要はなく、できるところは、突出してすばらしい衛星やロケットを作ってもいいのだ。画期的なアイディアを出し、実現すれば、賞賛される。経験の少ないところは、自分たちなりのことをして、成果を出せば、それも賞賛される。
みんなで仲良くゴールインというのは、すべての人に欲求不満を起こさせるのではないかと、個人的に思っている。
UNISECの標準は、常に最高地点。「標準」は「平均」とは違う。
トップランナーがより早く走ることで、後続のランナーも早く走れるようになるのだ。そういう意味では、トップランナーの責任は重い。でも、トップランナーは、そんなことは気にせず、自分たちの信じることを、何のてらいもなく、どんどん実現していけばいい。
皆の手本になるような団体があちこちに林立している、という状態が理想的。
どんぐりの背比べでなく、多様な植物が育っている、という状況が続いていけば、熱帯雨林のような「やせた土地なのに信じられないほどの豊かな恵み」が自然循環していく。
そんなことを意識して活動していたわけではないのだが、超特急で成長していく学生さんたちの姿を見るにつけ、この場は、もしかするとそういう場として機能していたのではないか、と思ったりする。
名著というものは、分野を超えて、ヒントをくれるものらしい。
「甘えの構造」「続・甘えの構造」を読んで、いろいろなことを考えた。まだ整理がついていないけれど、確かに何かの手がかりを得たように思う。
ご一読をお勧めしたい。
本日、初仕事。(これを書いているのは土曜日なので、昨日が初仕事だった)
今日は誰もいないので、落ち着いていろいろ片付けようと思っていたら、ある報告書の締め切りが今月18日というメールがきていて、やや動揺。書かないといけないとは知っていたのだが、今月18日というとあと2週間。この土日は報告書を書こう。
報告書の嵐シーズンはもう少し先だと思っていたが、すでに前哨戦が始まっている模様。
学生さんには、「早めに」「締め切りを守って」「ごまかさないで正直に書く」などとえらそうなことを言っている手前、やはりきちんと書かねばなるまい。
それはそれとして、うれしいお便りをいただいた。
UNISEC出身の卒業生からだ。メールでなくて手書きのお手紙なのがなんともいい感じ。かわいらしい便箋に丁寧に綴っていただいた。彼女は、就職活動の際には、求人も出ていないのに、自分で目をつけた宇宙関連の会社に電話をして、自ら仕事を勝ち取った猛者である。卒業後、UNISECの正会員になり、ワークショップや卒業生イベントでも活躍しておられる。本人は、「まだまだ正会員としてお役に立てるほど、ものがわかっていないので、せめて少しですが寄付させてください」といたって謙虚。
UNISECの活動で学んだことは
「自分の頭で考え抜くこと」
「未来を他人の手に委ねないこと」
「あきらめないこと」
なのだそうだ。
「未来を他人の手に委ねず、」「自分の頭で」「あきらめずに」考えることは、ふつうの生活の中ではなかなか難しいことだ。
「誰かが言ったから」というだけのことで、どれほど多くの「判断のチャンス」を失っていることだろう。私たちは、「自動反応」する機械になりがちだ。そのほうが楽だし、まわりもそれを期待している。違うことをいうと、「空気を読まない」などといって、蔑まれる。
適応力があるのはよいが、適応しすぎると、滅びるのが自然界の掟、と何かで読んだことがある。
空気を読んで、まわりが喜ぶようなことばかりしていると、自分は本当はどう感じているのか、わからなくなってしまうことも多い。いやなのにいやだと言えず、がまんしているうちに、「そんなにいやじゃないかもしれない」から「これでいいのだ」と思い込んでしまう。そうして、今度は、「これがいい、正しい」とまわりに喧伝するようになる。そして、「これは正しい」ことを証明してくれる言説を探すようになる。
表面的な感情はだませても、心の奥はだませない。そのうちに、からだのほうが悲鳴をあげるようになる。精神がまいってしまうこともある。でも、原因はなかなか探り出せない。
この恐ろしいサイクルから脱するには、どうすればよいのだろうか。
私が試みているのは、意識して、遠くから自分を見るようにすること。自分のまわりにゆとりをおくこと。リラックスする時間を作ること。お掃除すること。不要なものを処分すること。そして、気づきを与えてくれる本を読むこと。
ちょっといい本を読んだ。よき人間関係(特にパートナー)を創りたい方には特にお勧めだ。
タイトルは「私をコントロールしないで!ーあなたを支配するパートナーとの縁の切り方」(Stop controlling me!)と、ややショッキングなものであるが、内容はいたってまじめでまとも。アマゾンの読者書評が秀逸。71人中66人が「参考になった」のボタンを押したのがよくわかる。
2008年は、よき人間関係を築いていきたい。
そのためには、気づき、認めることがまずは必要と教えてくれる本に出合えたことに感謝。
必要なものは、いつもそこにある、と思えることにも感謝。いま、ここにいられてよかった。
こういう本をもっと早くに読みたかった。
中学生くらいのときに読んでいたら、どんなによかっただろう。
すぐ近くの歴史を、あまりにも知らなかった自分に気づいて、愕然とする。
半藤一利さんの「昭和史」。
1926年から1945年、つまり終戦の日までの歴史を、きわめて平易に解説してくださっている。
読み進むうちに、己のうちにもありそうな、「日本人のパターン」が見えてくる。
なぜにかくも「根拠のない自信」を持てるのか。
なぜ、状況を客観的にみないのか。
なぜ、世界の常識を学ばないのか。
勢いに流されてしまうのはなぜなのか。
歴史をきちんと学んで、同じような過ちを繰り返さぬようにしたい。そのためにはどうすればよいのか。
むすびの章が秀逸。
昭和史の二十年の教訓が実に簡潔に述べられている。
たいそう役立ちそうなので、書いておこう。
1)国民的熱狂を作ってはいけない。それに流されてはいけない。時の勢いに駆り立てられてはいけない。2)最大の危機において、日本人は抽象的な観念論を好み、具体的な理性的な方法論を検討しようとしない。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意。ものごとは自分の希望するように動くと考える。
→ 松浦晋也さんのブログの記事「夢の残骸」を読むと、最大の危機ではないけれど、ああこれかと思える。
3)日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害。小集団エリートが絶対的な権力を持ち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めない。
4)国際社会のなかの日本の位置づけを客観的に把握していない。主観的思考による独善。
5)ことが起こったときに、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がない。
どこにも根拠がないのに、「だいじょうぶ、勝てる」を繰り返し、まずくいったときには「底知れぬ無責任」。
。。。とても歴史には思えない。現在の情況そのものではないか。
歴史はしっかり見なければ見えないというが、現在の情況もおなじこと。
しっかりと見よう。
この昭和史には続きがある。
戦後の昭和史を、これから学ぶ。
読みたい本が自由に読めることの幸せ、学べる喜びに感謝しつつ。
スウェーデンからお客様。Swedish Space Corporationの方。
東北大と千葉工大の方々がミーティングをされるというので、同席させていただいた。
スウェーデンは極に近い地理的条件を上手に生かして、衛星運用ビジネスではちょっと知られている。ホテルやレストランなども完備していて、世界中から衛星運用のために人がやってくるそうだ。まだ衛星を打ち上げてはいないそうだけれど、強みを知り、それを生かした宇宙開発に取り組んでいるあたり、さすがだ
大学衛星はお金がないので、このサービスを利用できるかどうかはわからないが、どこで何がつながってくるかわからない。
ミーティングが終わってから、お茶でもさしあげようと、お時間のある方々を事務所にお招きする。皆さん快くいらしてくださって、狭いながらも楽しいオフィスはあっというまに満員。皆さんがコーヒーとおっしゃる中、スウェーデンのお客様は日本茶がよいとのこと。なんとなく嬉しいのはなぜだろう。
日本の伝統菓子といって、「かりんとう」をお出しする。
彼女といろいろ話をする。ちょっとした偶然が楽しい。
ブラジルの作家でパウロ・コエーリョさんという方がいらっしゃる。ちょっと不思議な作風で、ファンが多い。かくいう私もその一人。童話のようでもありファンタジー小説のようでもあるが、たぶんもっと精神性に富み、深く、そして愛に満ちている。
彼の作品に、「アルケミスト」(錬金術師)という本がある。
話しているうちに、彼女が、その本のことを知っているかと聞いてきた。私が言ったことで、その本に書いてあることを思い出したのだという。
宇宙業界の方と、この本の話をしたのは初めてのこと。話ができる人が現れたことに驚いた。そういったら、彼女は「わかるわ」と一言。
主人公は羊飼いだった少年。宝をさがして旅に出る。そして、多くを学び、愛を知り、宇宙とつながり、宝をさがしあてる。こう書いてしまうと冒険小説みたいだが、一つ一つの言葉に深い意味があって、短い小説なのに、私は読み終わるのにとても時間がかかった。
主人公はアルケミストに会って、砂漠の旅を導かれる。最後のほうにアルケミストが実際に金を作る場面がある。そのとき、アルケミストは、少年にできるのだということを見せたかった、という。
「できるのだということを見せる」
この一文に、私はとても惹かれる。
本当にそうだ。できるのだということを見せられないアルケミストは、アルケミストでなくてただのほら吹きだ。
本の中で、アルケミストが少年に言う。少年が風になれなければ殺されてしまう場面だ。
「その時は、おまえは夢を実現する途中で死ぬのだ。それでも、自分の運命が何か知りもしない何百万人よりかは、ずっと良い死に方なのだよ」
続けて言う。
「しかし、心配することはない。普通、死の脅威は、自分の人生について、人に多くのことを気づかせてくれるものだ」
もうダメだと思うとき、知恵が湧き出してくることがある。あるいは授けられるといってもいいかもしれない。
UNISECの活動の中で、「ただの学生」が「すごい学生」に変わるのを何度も見てきた。
「普通の先生」が「すごい先生」になるのも見てきた。
今年は過去最高の180人近くが参加と聞いている。一人ひとりが「すごい人」になっていく場にいられるのは、本当に幸せなことだ。
明日はかなり早起きをして、仙台に行く。たくさんの元気な顔に出会うのが楽しみだ。
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