「それでも人生にイエスと言う」
ナチの強制収容所で奇跡的に生き残った、ヴィクトール・フランクル先生の著書。収容所を出た翌年に講演をされたものを元にしているので、読みやすく、しかも内容の重さと深さはそのまま伝わってくる。
今世紀になってから、フランクル先生の代表作である「夜と霧」の新版の翻訳が出た。「世界がもし百人の村だったら」で有名な池田香世子さんが翻訳をされている。
「夜と霧」は、心理学を学んだ医師として、収容所暮らしを振り返る手記。
ごく普通の暮らしをしていた良識ある市民が、地獄のような収容所に送られてからの話を、記憶を頼りに再現している。ひどい扱いを受けているところや、餓死寸前の身体で強制労働をさせられているところなど、胸を突かれるシーンはたくさんあるのだけれど、乏しい想像力では追いつかないような世界だ。
筆者の絶望の中で見出す喜びが表現されているところが随所にある。つらかった、苦しかったという何倍もの哀切をもって、読む者に届く。
収容所に入れられ、真っ裸にされて、体中の毛を剃られ、人間としての尊厳をすべて奪い取られたときに、シャワーから水が出たときのこと。ガスでなく、本物の水が出たときにあがった歓声。
一日一食だけ与えられる食事は、薄いスープとパン。パンをひとかけら残しておいて、冷たくぬれた靴にむくんだ足を詰め込む、朝の一番つらいときに「むさぼり食う」幸せ。
病気の時に強制労働に行かずに休んでいることが許されるときの幸せ。地べたに身体を寄せ合ってぎゅうぎゅうの空間にただ転がっているだけ。うつろな目に見えようとも、生ける屍に見えようとも、うつらうつらとしていられるその時間は、幸せだったのだという。
夕陽が沈む美しさを、強制労働の合間に鑑賞する喜びは、普通の人が感じる喜びの何十倍もの喜びになる。
愛する人との空想上での会話を楽しむ喜び。そのとき、愛する人はとっくに死んでいたのだけれど、愛する人は確かに彼と話をしていた。愛は生死を越えるのだろうか。
人生に何を期待するか、ではなくて、人生があなたに何を期待しているかという問いへのコペルニクス的転回。人生に期待しても、答えは得られない。それは誰もが多かれ少なかれ経験していることだろう。
想像を絶するような生活の中で、内面的に成長していけた人間もいたこと、ナチス側にも隠れて助けてくれていた人がいたこと。どんな立場でどちら側にいるかということよりも、結局は「どんな人間なのか」ということが常に問われる。
もし自分だったら、その状況で、いったいどんな態度を持てるだろうか。
「それでも人生にイエスといおう」、というのは、当時の収容所で歌われていた歌の一節だという。
どうしようもない境遇や状態にいると思う時、それでも人生にイエスと言う。それは、たぶん、決意の問題だ。イエスと言って、受け入れる。そして、そこから進む。
この態度はもしかしたら、今の日本や世界や私たちの日常生活にいたるまで、必要なことなのかもしれない。
世界の軍事費が128兆円。多くの人が殺されるために使われるお金だ。
【ロンドン共同】スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が12日発表した2006年版の年鑑によると、」05年の世界の軍事費は、米国の対テロ戦争に絡む軍事支出の伸びが影響し、推計で、前年比実質3.4%増の1兆1180億ドル(約128兆円)に達した。米国だけで全体の半分弱を占め、5%前後で続く英国、フランスを大きく引き離し突出。
[共同通信社:2006年06月12日 19時20分]
日本の借金は771兆円。借金時計を見ると、刻々とその借金が増えているのがわかる。
自然破壊はどんどん進んでいる。アマゾンの熱帯雨林は大豆畑になり、アラスカでは森林火災が頻繁に起こり、お隣の中国では砂漠化がどんどん進行しているという。
・・・それでも、人生にイエスと言おう。
そして、前に進もう。
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