7月の連休に、高野山へ。
チベット仏教に帰依して20年以上というアメリカ人のお医者様にしてお坊様であるDr. Karzinのリトリート合宿に参加。宿坊に宿泊して、早寝早起き、精進料理という、清く正しい生活。静寂な中での瞑想はめまぐるしい日常を生きている者にとっては、得がたい体験。
高野山自体も初めて訪れたが、すばらしい。観光地になっているとはいえ、やはり宗教の深さ、歴史の長さをあちこちで感じられ、ほこりまみれになっていた魂も少しはきれいになったような気がする。
弘法大師はまだ生きておられる。
高野山ではそう信じられている。
お住まいもあるし、日に二回、お食事も運ぶ。
それが1200年間も続いているということに、驚きを禁じえない。
お遍路さんの服などによく書いてある「同行二人」とは、いつも弘法大師がいっしょにいてくれる、という意味。
実家が真言宗なので、「南無大師遍照金剛」と唱えているが、これは弘法大師への崇敬を唱えているそうだ。知らないでいたことが、いろいろわかるのは楽しい。
仏教では、生きとし生けるものを大切にする。
虫も殺してはいけない。それはもしかしたら、過去のどこかであなたのお母さんだったかもしれない。そんな言葉がすっと入ってくる。
高野山でいたく納得し、すべての生き物に対しての愛を胸に感じて帰京。
ところがである。
そのような愛が、ホンモノの愛かどうかをテストされる機会はすぐにやってくるらしい。
高野山から帰り、東京の自宅で虫が大繁殖しているのを発見。
少し前から、虫が飛んでいるのには気づいていたが、蚊のようにさすわけでもなく、害はないと思い、放置していた。
しかし、天井にも壁にも床にも大量に虫がいる。ゴマのように小さいが、羽があって飛ぶ。
インターネットで調べると、「シバンムシ(死番虫)」らしい。なんという命名をされたのだろう。各地で悪さをしているらしく、たくさん書き込みがあって、すぐに情報が取れた。
ココアの缶の中で大増殖していたという書き込みがあり、よもやと思ってあけてみたら、
「ぎょ、ぎょえーーーー!」
というしかないような「虫の楽園コロニー」となっていた。
調味料類も全滅。七味やパプリカのびんにどうやって入り込んだのか、ここにもいる。小麦粉の類もお米も。。。
もったいないとは思いつつ、インターネットで調べると、成虫は殺虫剤等がきくが、卵や幼虫にはきかないというので、コロニーになりそうなものはすべて捨てる。
成虫を見つけたら、すべてつぶす。
一匹でも残っていたら、たぶんそこからまた増殖するのはまちがいない。
殺生はしないでおこうという自分の生きとし生けるものへの「愛」がいかに薄っぺらなものであったかを知る。
彼らにとっては、何も悪いことをしているのでなく、ただ「生きている」だけなのだ。もし、人間のような意識があったとしても、私に害を与えているつもりは毛頭ないだろう。
その行為が外で行われているのであれば、私はたぶんにっこり笑っていられるだろうが、自分の食物がやられているわけなので、黙ってみているわけにはいかない。
たぶん、そういうことだ。
自分に影響のある範囲内のことかそうでないかで、ものごとの色合いや意味合いは大きく違う。
生き方もいろいろ、仕事の流儀もいろいろ。
考え方は千差万別で、どれが正しくてどれが正しくないか、ということは判断が難しい。
立場によって、状況によって、環境によって、言うこともきっと変わってくるだろう。
無意味感にとらわれるのは、そういうことがわかってしまったときだ。
盲目的にまっすぐ突き進んでいるときは、ある意味では幸せであり、生きている充実感(らしきもの)も得られる。
しかし、それが幻想かもしれないと気づいたときに、そこからどう生きるか。
「生きとし生けるもの」への限りない愛情をもてるのは、自分に危害が及ばないときだけ、ということを身をもって知るとき、たぶん「菩薩への道」を歩き始めることができる。
出発点は、いつもいまあるところ、偽りのない自分、だ。
その自分も、「生きとし生けるもの」の一部であることに気づき、それが腑に落ちると、そこから殺してしまった虫たちへの愛情(らしきもの)も出てくるのかもしれない。虫との闘いを私はきっとやめられないだろうけれど。
合掌。
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