ゴーギャン展 

久しぶりに絵を見に行くことにした。

お目当ては、ゴーギャン。Paul Gauguin。
竹橋の国立近代美術館へ向かう。
雨もあがった昼下がり。暑くもなく寒くもなく、気持ちのよい気候。

ゴーギャンはタヒチの作品でよく知られている画家。暖かな色使いがいい。

画家の生涯がどんなものであったのかということを知ることと、絵そのものを鑑賞することとはあまり関係がないと思うけれど、(つまり、よい絵から伝わってくるバイブレーションを感じるのは、背景知識がなくてもできる)なぜ彼がタヒチへ赴いたのか、そこで何を感じたのか、などを知るのは大変興味深い。

30歳を過ぎてから画家になった彼は、この世界では遅咲きといっていいだろう。
印象派のやわらかな絵から、ブルターニュ地方で開花した彼独自のスタイル、そして、タヒチ時代の絵。
タヒチでは、緑の色が濃くなり、オレンジ系の赤がより強烈になっている。

タヒチでは13歳の女性といっしょに暮らしたという(当時彼は43歳)。タヒチでは13歳はりっぱな女性だったのだろう。

タヒチで満足のいく絵を描いて、それを持ってパリへ凱旋。。。のはずが、パリでは酷評され、絵も売れずに絶望した彼は、二度と戻らない決意で再びタヒチへ。そこで娘の死を知らされ、さらに絶望したという。最期はマルキーズ諸島の小さな島で54歳で亡くなっている。

遺書として書いたという「Dou Venons Nous, Que Sommes Nous, Ou Allons Nous (我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という大きな作品は圧巻。
絵というものが持つ力、言葉では決して伝えられない何かを感じながら、インスピレーションがアタマの中で炸裂する。

ああ、この感じ。久しく忘れていたような気がする。
これを見ただけでも、行ったかいがあったというもの。

ゴーギャンの世界に酔いしれつつ、工芸館と常設展のチケットもついているとのことで、400メートルほど離れた工芸館へ向かう。ついでに北の丸公園をお散歩して、雨上がりの植物のにおいを存分に楽しむ。ここが都心とは思えない。

常設展では、梅原龍三郎氏の「北京秋天」をはじめとする日本の画家たちの傑作に感動。うーん、近代日本画壇もなかなかよろしい。現代アートは、あまりよく理解できなかったけれど、、、。

ゴーギャンといえば、ゴッホと暮らしていたので有名。彼の耳きり事件をゴーギャンはどんなふうに感じたのだろう。想像の種はすばらしい芸術のまわりにはいくらでもある。

| | Comments (4)

お彼岸

Sakura

3月20日、春分の日。この日はお彼岸。

お墓参りへ行く。
午前中は雨だったが、お昼にはやみ、午後は晴れて暖かくなった。

たくさんの方がきているのに驚く。
雨があがってどっと繰り出した皆さんで、駐車場はみるみる一杯になった。

お墓のお掃除をして、花を飾る。
お線香を焚いて、おまいりする。
することが決まっているのは、ある種の安心感を与えてくれる。

これまで、親戚縁者と離れた核家族だったので知らなかった世界。
家族みんなでおまいりするのが、日本のお彼岸の過ごし方だったのか、、、などと、たいへん遅まきながら学ぶ。

この翌日、母が、学生時代の友達に会うというので、東京駅まで送っていった。八重洲中央口で待ち合わせ。父が亡くなってから、電車に乗るような外出をしなくなっていた母は、昔の友達に会った瞬間に、娘時代に若返って、満面の笑み。こんな顔を見るのは、久しぶり。

すべては絶妙のタイミングで起こる。
いいときに、いい友達が現れてくれる。
学生時代に戻って、笑い転げれば、誰だって元気になる。

それから一人で上野へ。
お天気がよいので、公園の中を歩いて帰ろうと思った次第。
しかし、なぜかふらふらと博物館へ。常設展だけなので安い。

Smile
そこで、運命の人(ではないが)に出会ってしまった。
美しい、静かな、穏やかなお顔。
ずっといっしょにいたいと思うようなお顔。
すいていたので、どなたかにご迷惑をかけることもなく、ずっと見つめていられた。
お顔しかないけれど、もとはお体もあったのだろうか。

最近、いろいろ疲れることが多いし、NOと言わなければいけないこともけっこうあるし、NOと言われることもある。
そういうとき、人並みに繊細な神経はとても疲れるのである。

そんなときに、こういうお顔に出会える私はなんと幸運なのだろう。
すーっと、痛みが消えていくような感覚の揺らぎの中にいるのは至福。

こんな微笑をたたえる人になれたらどんなに素敵だろう。
折にふれ、このお顔を思い出すことにしよう。

| | Comments (2)

桜の金曜日

花の金曜日、いや、桜の金曜日といおう。

夜に上野の国立博物館へ。
庭園を開放して、ライトアップしているというのを聞いていたし、奈良から月光菩薩様と日光菩薩様がわざわざいらしてくださっているというので、ご尊顔をうかがおうと思って、出かけた。

なんと、今晩は、桜のコンサートまであるとのこと。あまりのラッキーにちょっと興奮。

菩薩様たちは、奈良でお会いしたとき(なれなれしい?)にもとても素敵だと思ったけれど、上野でゆっくりされているお姿は、かけよっていって、スリスリしたいと思うくらいに素敵だった。

特に惹かれるのが後ろから見たときの肩のあたり。優美なのに力強いその丸い肩。
思わず、恐れ多くも「ああ、あの肩におんぶしてもらいたいー!」と思ってしまうのであった。こんなに安心感、信頼感を与えてくれる菩薩様が、わざわざ東京までいらしてくださるなんて、なんとありがたいことだろう。(運ぶのはさぞかし大変だったろうと思う)

お礼といってはまたまた恐れ多いのであるが、ひそかに手相(仏像にもちゃんと手相があった)を拝見させていただいた。肝心のところが影になっていて、よく見えないのであるが、ひとつはっきりわかったことがある。

菩薩様には、運命線がなかった。
大いなるものと流れを同一にしておられる方に運命線は不要なのかもしれない。
自分の運命は何なのだろうなどといって、じたばたしている輩とは、まったくレベルが違うに違いない。

お庭をひとまわりして、空に広がる夜桜にうっとりして、しだれ桜の美しさにため息をついて、いよいよ「夜桜コンサート」

博物館の講堂はちょうどよいくらいに人がいっぱい。

芸大出身の8人のメンバーが作ったという「ヴォクスマーナ」というグループ。
曲目は以下のとおり。

さくら
からたちの花
荒城の月

夜の静けさ
過ぎし春

小さな空
恋のかくれんぼ
明日ハ晴レカナ、曇リカナ

ヴォクスマーナというのは、ラテン語で「人の声」という意味なのだそうだ。
男性4人女性4人からなるアンサンブルは、一人1パートを担当してのもので、8人の声が重なり合って、響きあって、それはそれは心地よいものであった。

アンコールは、「隅田川」。名曲が美しい歌声で歌われるのは素敵。その美しい波の中にいるのは至福。

とてもいい気分で、再度、菩薩様のところへ。
何度見ても癒される。美しくて強い。やさしくてきりりとしている。
こういうものは二律背反しないものなのだと納得。

夢のような2時間が過ぎて、下界(?)に戻り、屋台で軽く食事。韓国料理系の屋台が増えているような気がする。チヂミとチャプチェを試してみる。味は悪くない。

ギターをひきながら大声で歌っている方がいらしたりするのも一興。

余韻にひたりながら、事務所に戻って、仕事の続き。

夢のような桜の夜。
ほんの2時間だけ、「タイムスリップ」したような気分。

幸運な夜に感謝。


| | Comments (2)

ムンク展

国立西洋美術館でエドヴァルド・ムンクの展覧会。
ノルウェーの画家。19世紀末から20世紀初頭に活躍。

絵から異様な雰囲気が漂ってくる「叫び」という作品は有名。
この絵の印象が強かったので、気分が暗くなることを予想して、けれど何かひきつけられるように美術館へ。

子供のころに母と姉を亡くしていて、それが作風にも影響しているとのこと。
「病気の子供」の絵など、救いようがないほどに表情に諦めがにじみ出ている。
「不安」「絶望」というタイトルの絵は、「叫び」によく似て、空は不気味に赤く、人の表情は暗い。

ああ、もっと明るい展覧会へ行くべきだった。。。と後悔するのは早い。

ムンクは、作品を一点ずつ鑑賞するというよりは、並べて鑑賞するものとして考えたらしい。
「生命のフリーズ」というのは「全体として生命のありさまを示すような一連の装飾的な絵画として考えられたもの」だと、パンフレットに書いてある。

並べて鑑賞するには最適なのが壁画。彼はあちこちに壁画も残している。
チョコレート工場の食堂には彼の壁画がある。こんなところで食事ができるなんて、なんて幸せな人たちだろう。

今回、最高に印象に残った作品は「太陽」。オスロ大学の講堂の壁画の正面に描かれたもの。この壁画は7年の歳月をかけて一人で描いたのだそうだ。

その「太陽」。
寒色を中心に描かれているのに、明るいのである。
なんともすがすがしくて、光がこちらの心の中までさしこんでくるような作品。
10分くらいボーっと見ていた。至福。

ああ、これに出会うためにここに来たのだなあと勝手に納得する。
芸術鑑賞は「思い込み」で楽しむに限る。

悲しい子供時代を経て、悩み苦しんだ時期を経たからこそ描けるこの太陽。

その太陽の光を時代を経て、海を越えて受けることができる幸せ。

こういう企画展の作業は気を使うことが多くて、相当に大変らしい。
けれど、こういう幸せな時間を作ってくれるのだからすばらしい。ぜひぜひ気合をいれた企画展をどんどんやっていただきたいものだ。

| | Comments (0)

ベルギー王立美術館展

11月3日は文化の日。
やはり、これは文化に親しまねばと思い、国立西洋美術館へ。

心に痛みがあるときは、美しいものや自然に親しむのが何よりのクスリ。あの重い本を読んだ痛みは胸の中にずっとある。痛みは胸でなく腹で受け止めるべしと聞いたことがあるが、どうやれば可能なのだろう。

それはともかく、ベルギー王立美術館展へ。
久々に自転車に乗る。快適。
いつも、心は自由だ。悲しみに出会っても、痛みを抱えていても、楽しくなろうと思えばなれる。

6月に「ベルギー近代の美」という美術展を千葉県の佐倉市立美術館で見たときに、予告があったのを思い出した。あのとき、まだまだ先だと思っていたが、あっというまに数ヶ月がたったらしい。

お天気もよくて、上野はたいそうな人出。

展覧会は、400年にわたるベルギーの絵画を順序良く見られる構成になっている。説明用イヤホンも借りたので、歴史もいっしょにお勉強ができる。

イタリアも絵画は盛んだったが、ほとんどがフレスコ画だったという。フランドル地方で初めて「可動性のある絵」が生まれたのだそうだ。油絵もここが発祥の地だという。

イカロスの墜落」(ブリューゲル父の作品といわれているが、不明)という作品。

一見すると、のどかな海岸の村の何気ない描写のように見える。海には船が、陸では人が普通に歩いていたり、作業をしたりしている。
しかし、よく見ると、イカロスが海で溺れている。

イカロスは、父ダイダロスとともに幽閉されていた塔から、父が鳥の羽を集めて作った翼で逃げ出す。「翼をくっつけてある蝋がとけてしまうから、あまり高く飛んではいけないよ」という父の忠告を忘れたために、海にまっさかさまに落ちてしまう。

そして、この絵では、じたばたしている足だけが小さく描かれている。一人の悲劇は、全体の中ではちっぽけなものだということなのだろうか。あるいは、イカロス神話のメッセージを伝えようとしているのだろうか。解釈はいかようにでもできるが、解釈など忘れて、ぼんやりとこの絵とともにいると、不思議な感じがしてくる。芸術作品は解釈するものでなく、ともにいるもの、と思う。お金持ちが芸術作品を収集したくなる気持ちがほんの少しだけわかる気がする。

今回、心に残ったのは、貧しいバイオリンひきの青年の肖像画。ルイ・ガレの「芸術と自由」という作品。ガレ自身が貧しさの中から才能を開花させたそうだ。
「ボロは着ていても心は錦」という言葉があるが、その目の強い光は、見る者に力を与えてくれる。200年近く前に描かれた絵が発するエネルギーに驚嘆。

ルネ・マグリットの「光の帝国」は、建物は夜なのに空は昼という不可思議な情景を描いている。
けれど、美術館の外に出たら、それに近い情景があった。

夕暮れ時。美術館は影になって暗く、空はまだ青い。
シュールレアレスムは、現実を超越するのかもしれないが、ナノ秒の単位でみると、現実もけっこうすごいことを行っているのかもしれない。

マグリットカレンダーを購入。1800円也。
しかし、日本の祭日の記入はなし。2007年は「祭日など超越して」暮らせ、ということかもしれない。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

プラド美術館展

自転車を購入。
きっかけは、マンションの自転車置き場に新ルールが導入されたこと。これまで自由においてよかったのが、何番は誰の置き場と決められることになり、届出を出さないといけなくなった。しかも、現状で使っているところを申し込むという話になっている。

自転車はいつか買おうと思っていたが、後回しになっていた。けれど、自転車がないのに自転車置き場を申し込むのも変なので、近所の自転車屋さんで、とうとう購入。ボディーは銀色。三段切り替えもついている。ごく普通の自転車だが、乗り心地もよくて、いい感じ。

もうほとんど埋まっていた自転車置き場だったが、このあたりがほしいと思っていたところに、一つだけ空きがあった。ラッキーだった。星の数ほどある中で、一つだけあれば満足できるものは、実は多い。それなのに、どうして人はたくさんほしがるのだろう。一台の自転車には、ラックは一つでいい。

というわけで、本日は自転車で美術館へ。歩いても行けるし、歩くのは大好き。しかし、自転車は自転車の楽しみがあるし、やはり速い。

本日のお目当ては「プラド美術館展」。東京都美術館にて開催中。
ピカソやダリなど多くの芸術家の感性をはぐくんだという、スペインの宝ともいうべきプラド美術館が来日中とあっては、感性をはぐくみに行かねばなるまい。

そう思う人が多かったのか、たいそうな混雑。人が多くてゆっくり鑑賞するという感じではないが、それなりに見て楽しむ。

今回のお気に入りは、ムリーリョ作の「貝殻の子供たち」とゴヤ作の「トビアスと大天使ラファエル」。どちらも宗教画。「貝殻の子供たち」は、かわいい子供が二人いると思っていたら、なんとこれは「イエスとヨハネ」だという。
「失礼いたしました」と小声でつぶやく。

肖像画に人格まで描きこんだベラスケス。王に「あなたは画家の王だ」といわれたくらいのティツィアーノ。そのティツィアーノの影響を受けたエル・グレコにルーベンスにゴヤ。いずれもすばらしい作品ばかり。そしてまた、ボデゴン(静止画)のメレンデスときたら、西瓜やプラムの質感は、写真を超えている。

でも、18世紀から19世紀にかけて、スペインは戦乱の中。かつての栄光も影響力も地に落ち、妖術や魔術に傾倒する知識人が多くなったという。そんな狂気の時代が終わったときに、フェルナンド7世が、国民に「光あふれるスペイン」「人間の誇り」を取り戻してほしいという願いをこめて作ったのが、この美術館だという。

プラド美術館は、画家だけでなく、多くの人にインパクトを与えてきたのだそうだ。
「プラドにきて、運命が変わった」といった小説家がいるという。

今日、きっと私の運命は変わったに違いない。


| | Comments (8) | TrackBack (0)

保全と和全

日本橋の三井記念美術館
高級感をかもし出す新しいビルの7階。元は三井文庫といっていたのを、移転して美術館にしたらしい。その存在も知らなかったが、偶然通りかかったので、入ってみた。

エレベーターに行くまでの通路からして優雅。ワクワクしながら、美しいエレベーターに乗る。受付にはにこやかな女性がすわっている。800円也のチケットを購入。

展示されているものは焼きものらしいが、どこのどなたのどのような作品なのかはまったく知らなかった。しかし、大切に作られて、大事に使われたのがにじみ出て、なんとも美しい。

見ているうちに、ほんの少しだけ理解。
これは、千家の茶道具を製作していた永楽家の焼き物。三井家が援助をしていた関係もあって、多数の焼き物が三井家に残っていた。すばらしい芸術が生まれるには理解あるスポンサーの存在が大きい。

永楽家10代が了全。その養子になったのが保全。その息子が和全。三代の当主は、同じような焼き物を作りながら、少しずつ違っている。芸術品はすべて人工物。人が作ったものである。だから、その人となりが出るのかもしれない。

解説によると、保全は若いときから研究熱心で野心的だった。和全は、もっと鷹揚だったが、動乱の時代(江戸から明治にかけて生きている)に生き、経済的にも困窮して苦労しているせいか、茶人の評価では、和全の作品のほうが「わび」の味が出ているそうだ。

お持ち帰りをしたかった作品は、和全作の小皿。かわいらしい野の花が伸びやかに描かれた小さなお皿がたくさん並んでいるさまは、ため息が出るほどの美しさ。もちろん、赤絵のものやら、もっと重厚なもの、凝ったものなどすばらしい作品はたくさんあるのだが、この小皿は、すっと心に入ってきて、出ていかない何かを持っている。

なかなか素敵だったので、帰宅してから、ネットで永楽和全のことを調べていると、おもしろい記事。アサザ基金はなかなかの組織だと思っていたけれど、代表の方も深いお考えをお持ちのようだ。一部引用させていただく。

里山の「保全」や「管理」についての議論が盛んである。しかし、以前から私は「保全」や「管理」という言葉にある違和感を持っている。これらの言葉には、動きが無く里山と人々や社会との一体感が感じられない。 <中略> 「保」には「たもつ」「世話をする」「やとわれ人」などの意味が記されている。「和」には、「おだやかなこと」「仲良くすること」「うまくまざること」などと記されている。わたしは里山に合うのは、「保」より「和」つまり「和全」ではないかと思う。

「自然保護」とか「環境保全」という言葉がよく使われるけれど、そういう言い方をするとき、自然や環境と人間の間には壁がある感じがする。「環境和全」という言葉がもしあったら、人間は環境の一部としておだやかに存在するようになるのだろうか。

まったりとした「和」の中で、静々と進んでいこう。
方向さえ正しければ、どんなに歩みが遅いように見えたとしても、いつか目的地には着くのだから。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

ロダンとカリエールとナスカ

久々に「文化」に触れようと思いたち、上野公園へ。
「ロダンとカリエール」展が、国立西洋美術館で開かれていた。たまには彫刻で目を喜ばせよう。お金を払わなくても、西洋美術館の入り口のところには、ロダンの芸術品がどーんとおかれている。こういうところは太っ腹でよろしい。

「考える人」で有名な彫刻家ロダンには、カリエールという画家の友人がいたのだという。互いに刺激を与え合い、影響しあい、互いの作品を大事に持っていたという二人は、彫刻と絵という表現方法は違っていても、似た魂を持っていたらしい。

持つべきものは、よき友だ。
友には利害関係がない。もしあるとしたら、それは友ではない。
利害関係がないとき、友は自分の鏡といってもいい。利害関係が生じると、鏡はたちどころに曇る。だからいけないというわけではなくて、曇ったら磨くことを知っていればいい。磨き続ける努力を惜しまないことで、鏡は本当の姿を映し出し続けてくれる。

カリエールの絵は、セピア色の肖像画や人物画が多い。鮮やかな色彩が好きな私には、やや物足りないような気がしていたのだが、見ているうちに色が浮かび上がってくるような気がするのが不思議だ。ちょうど、水墨画は白と黒だけなのに、見ていると色がふっと見え隠れする(ような気がする)のに似ている。カリエールは色彩豊かな絵で知られるマティスの師だったという。これも不思議。

そして、確かにロダンの彫刻とカリエールの絵は、なにやら似ているように見える。カリエールはロダンの肖像を描き、ロダンはカリエールのデスマスクを制作監督したのだという。

美術館でいつも考えること。
「ひとつ、好きな作品を持って帰ってよいといわれたら、どれを頂こうか?」
そんなことを言われることはありえないが、そう思って作品を見ると、いちいち真剣にしっかりと見ることを楽しめる。

今日の中では、ロダンの大理石の彫刻が素敵だった。タイトルは「復活」と書いてあった。
La Convalescente (The Convalescence) 

「復活」というような劇的な感じはなく、「ゆったりした回復期」とでも命名したいような、柔らかな作品だ。真っ白な大理石の中に浮かび上がるやさしい顔と手。見ているだけで、和やかな気持ちになるような作品。こんな彫刻が部屋にあったら、毎日が幸せだろうと思いながら、しばらくそのやさしい顔を見つめていた。

芸術作品は、鑑賞するより、「ともにいる」ほうがいい。好きな作品と「ともにいる」贅沢で大切な時間。意外にすいていたので、たっぷり楽しめた。

それから、常設展をぶらぶらと見て、帰ろうと思いきや、美術館の半券でナスカ展が割引、というポスターが目に入り、そのまま科学博物館へ。(200円割引だった)

ミイラや当時の食器類、織物類の展示。織物類は、インベーダーゲームにちょっと似た絵柄だが、すばらしい芸術品だ。よくぞ復元できたものだと思う。目玉は子供のミイラの展示。黒目があるなどと説明がある。こんな昔の子供が、そのまま残っているなんて、不思議でならない。

そもそも、ナスカの地上絵というのは、単に地表のゴロゴロとした石をよけて作っただけの道らしい。日本にいる私の感覚でいうと、そのようなことをしても、10年ももたずに道はなくなってしまうと思うのであるが、乾燥地帯では「ときの流れ」のスピードが違うのだろうか。

ナスカの地上絵を大スクリーンで体験できるというので、楽しみにしていった。確かにセスナで飛んでいる気分になるようで、なかなかの迫力だが、私は、こういうのを見てしまうと、ホンモノを自分の目で見たくなる困った性分なのである。うーんとうなりながら、帰宅。ナスカのツアーなど、ネットでつい調べてしまった。

誰が何のために作ったのか、という論議はつきないらしいけれど、今そこに、それが残っていて、現代の私たちが見ることができるということ自体、奇跡的だ。

ロダンとカリエールとナスカは何の関係もない。単に、私が同じ日に展覧会を見た、というだけのことである。しかし、あえて結びつけて考えてみると、「残す行為」の普遍性のようなものを感じずにはいられない。

ミイラとして残したい、デスマスクにして残したい、肖像画にして残したい、というのは、「何かを残したい」という気持ちであって、古今東西を問わず、人に備わっているものなのかもしれない。とすると、デジカメやビデオは、その欲望を満たす格好の製品といえる。普遍的な欲望をとらえる製品開発をすれば、売れるわけだ。とすると・・・・意外なところにヒントがありそうだ。


| | Comments (2) | TrackBack (0)

時間の終わり

六本木ヒルズ。青いイルミネーションが新鮮。
高速エレベーターで53階まで上がると、22時まで開いている美術館があった。

杉本博司氏の「時間の終わり」というタイトルの写真展。ニューヨーク在住の杉本氏のお名前も、お仕事もまったく知らずに、ふらりと立ち寄った場所で、私の「時間」の観念はかなり変わったような気がする。それくらい衝撃的であった。アートというのは、こんなふうに人のものの見方が変わるような衝撃を与えるものなのだろうか。

入ると天井から床まで薄い柱がたくさん立っているのが見える。これだから現代アートはわからないと思って進んでふと振り返ると、しかけがあった。白壁の後ろ側に写真が展示されていて、写真展になっているのだ。このユーモアのセンスは、「二度楽しんでもらいたい」というところからきているらしい。

すべてモノクロの写真。
動物の剥製を写真にとると生きているように見えることからヒントを得た彼は、「写真にとると真実になる」ような写真作品を発表。写真の世界がジオラマ。そこではネアンデルタール人が、地球上のどこかに少数民族のように残っていて撮影されたかのように見える。

映画を一枚の写真でとるとどうなるか。彼の中で、答えは「真っ白なスクリーンになるだろう」
旅行者を装って、屋外の映画館で撮影。2時間かけて撮影した作品たちが並ぶ。予想どおり、光り輝く真っ白なスクリーンになった。一度光があたると、もとには戻らない。何かが写ったはずだけれど、写し続けると真っ白になるらしい。

能の舞台がしつらえてある。実際に上演もされたらしい。残念ながら、見逃してしまったけれど、きっとすばらしかったに違いない。壁中にかけられているのは、水平線の写真。世界中で撮り続けているのだという。海の風景はアーティストのレンズを通すと何か切り取られるものが違うのだろうか。

肖像画が並んでいると思ったら、実は写真。しかも、マダム・タッソーの蝋人形師に肖像画を見せて作ってもらったという蝋人形を撮影したのだという。手の感じといい、表情といい、どう見ても、普通に人物を撮影したように見えるのである。説明がなければ、ふつうの肖像写真だと思って通り過ぎていただろう。

無限大の二倍の焦点距離をとって、建物を撮影する。優秀な建築物は残るが、そうでないものは溶けてしまうそうだ。二十世紀の代表的建築物が並ぶ中で、一番すばらしかったのは、光の教会の写真。目に飛び込んでくる光の十字架は、焦点距離をどのようにとろうとも、美しいのだろうか。安藤忠雄さんの作品。氏を存じ上げているわけではないけれど、なぜか嬉しい。大阪の茨木市にあるそうだから、一度行ってみたい。

帰宅して何気なくテレビをつけたら、大好きな小田和正さんのライブ。なんという幸運。
ちょっと早いクリスマスプレゼントをもらった気分。

幸せはいつでもどこにでも。
一人でも二人でもたくさんでも。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

プーシキン美術館

奈良で美しいものに触れたせいか、もっと美しいものに出会いたくなり、上野へ。北斎展を見ようと思っていたが、40分待ちと書いてあり、あっさりあきらめて、東京都美術館へ。

あきらめて、というのはたぶん違っている。
「やっぱり、マティスの金魚を見よう」
さっと心の中で切り替わったのである。一瞬のこと。

東京都美術館で「プーシキン美術館展」をやっている。大好きなマティスの「金魚」に会いたかった。本当にほしいものにめぐりあわせてくれるために、障害というのはあるのだろうかと思えてくるから不思議。こちらも15分待ちとのことだったが、まずはチケット売り場へ。ちょうど日展をやっていて、かなりの混雑。

見知らぬ女性が近寄ってきた。
「すみません、プーシキン美術館展をごらんになるんですか?」
うなずくと、
「連れが来られなくなってしまったので、この券、よかったらさしあげます」
まあ、なんというラッキーなこと。

「たまにはいいことがあると思ってくださいな」

そんな優しい言葉とともに、私の手にチケットを握らせてくださった。こういうことがあると、やはり私はこちらに来ることになっていたのだと妙な確信が出てくるのがまた不思議。「科学的」でない思考回路を持っていることは楽しい。

しかしこちらもかなりの混雑。こういうとき、背が高い人は得だ。しかし、この思考は人生をつまらなくする。「せっかく背が低いのだから」、「前のほうに行かなければ決して見えないのだから」、ちょっと待って絵に接近してゆっくりと鑑賞。最近のイヤホンは、音楽つきで音質もよく、説明もわかりやすくて心地よい。

プーシキン美術館は、モロゾフとシチューキンという二人の実業家が集めたコレクションをもとにして作られたそうだ。モスクワ革命の前だから、リッチな人はとめどなくリッチになれた時代。

シチューキンの自宅には、マティスの部屋とピカソの部屋があったそうだ。ため息が出そうな贅沢な空間だったに違いない。マティスの部屋は、ばら色の天井の豪華絢爛なつくりだったのに比べ、ピカソの部屋は白が基調の簡素なものだった。それぞれの絵画がいちばんひきたつしつらえ。部屋のモノクロ写真が残っている。

展覧会は3階に分かれて展示。象徴主義から印象派、ナビ派とアンティミスト、マティスとフォービズム、そして最後にピカソとキュビズムという構成。いっぱしの美術愛好家を気取れるくらいにわかりやすく並べてある。

お目当ての「金魚」は、真ん中の階にあった。思っていたよりずっと大きな絵だった。なんと明るい色彩だろう。ピンクの色合いがなんともいえず素敵。金魚に表情があるのもいい。こんな絵が自宅にあったらどんなだろう。この世界が美しいことを思い出させてくれる。生きていることがとても幸せに思える。

帰り際に、MAYAMAXXさんの本を買う。絵がふるえるほど好きになる というタイトル。表紙がマティスの「金魚」。画家の彼女の目で見る作品。話し言葉で語りかける説明文はなかなか。「すみません、セザンヌはよくわからない・・・」というような正直なコメントがいい。

いいものを見ると、それからしばらくその幸せ感が続く。しばらくの間、「マティスの金魚」が視界にいる生活を楽しもう。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧