内発的意思の力

朝日新聞の北海道版に、「私の本棚」というコーナーがあって、そこで「上がれ!空き缶衛星」をご紹介いただいた。ご紹介くださったのは、植松努さん。

意外なことが書いてある。

  この本は、東大の学生が空き缶サイズの人工衛星を打ち上げるまでの苦闘のドキュメント。だが植松さんが出会った時は、自らがロケット開発に携わるとは夢にも思わなかった。

植松さんは、もともと三菱重工で飛翔体の設計をしておられた方で、北大が開発しているカムイロケットのサポートをしている。この本は、2004年6月に出版された。ということは、彼がロケット開発に深く関わるようになったのは、それ以降ということになる。この本が、彼の決心の一部に関わったのだとしたら、そんな光栄なことはない。

  「登場する学生たちは、やったことのないことも『できない』と言わず、失敗してもあきらめない。上司らの命令ではなく、寝食を忘れてのめり込む姿に心打たれた」と言う。

そして、今、そのとおりのことが彼の会社の従業員に起こっているという。今年3月に大樹町で行われたロケット打ち上げ実験の直前に、エンジンが全損し、急遽作り直したときも、彼らは自発的に動き、深夜の作業を黙々とこなした。打ち上げの後で、高校を出たての年若い社員が、感動して涙を流したという。

内発的な意思に突き動かされているとき、人は本当に強く、賢くなる。内からにじみ出てくる熱いエネルギーは、同じエネルギーを持つ人たちを呼び寄せる力となる。口を糊するためだけの「仕事」は8時間で切り上げたいが、好きなことなら何時間でも大丈夫という経験は誰もがもっているだろう。

この内発的な意思を育み、技術開発や経済の活性化に役立てられるような仕組みを作りたい。そして、それが持続可能な宇宙開発への道につながっていくといい。自浄作用を持ち、技術が生かされ、人も生きるような、正のスパイラルができはじめるようになればしめたもの。

持続可能な宇宙開発を目指して、まずはシナリオプランニング。
100年前の日本人は、第一次世界大戦の後のベルサイユ講和会議で、「自国の権益しか視野に入っていなかった」そうである。それが、その後日本がたどった暗い道へとつながったという説もある。その愚を繰り返さぬように気をつけながら、まずは一歩をふみだそう。


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韓国中央日報書評

韓国の中央日報(8月21日付)という新聞に、「上がれ!空き缶衛星」の書評が載っていたと、韓国からの留学生が教えてくれた。韓国語のできない私のために、日本語に翻訳までしてくれた。ちょこっと日本語の添削をしてあげたら、とても喜ばれた。こういうやり取りは嬉しい。ほんの少しの努力で誰かを喜ばせてあげることができるということに気づくのは幸せなことだ。

以下、翻訳してもらったものを載せておく。
日米が、いつのまにか日米英になっているところなど、やや誤解もあるが、小さなことだ。大事なことは、こんなことを日本の大学生はやっているということを多くの人に知っていただくこと。

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工学部学生達の缶衛星打ち上げ成功記

不可能に見える目標
たゆまぬ挑戦
日本人の底力

350mlのジュースの空き缶にコンピュータ回路とカメラレンズ、電源装置などを載せて宇宙に打ち上げる。缶の中に入っている通信装置は宇宙空間の各種データと写真を地上に送信する。ただし、設計から製作までの全過程をすべて学生の手でやる。予算は1000ドル未満。

 子供向けのアニメに出てきそうな荒唐無稽な話に聞こえるかも知れない。テレビで見た衛星の大きさを考えたら冷蔵庫に象を入れるジョークかと思うかもしれない。しかし、これは1999年から毎年成功裏に行っている国際プロジェクトだ。いわゆる‘カンサット(CanSat)’、空き缶衛星だ。内部構造は本の表紙のそのままである。

 「上がれ!空き缶衛星」はこのプロジェクトに挑み、空き缶衛星を打ち上げてデータ交信に成功した日本の東京大学の学生たちの奮闘記である。不可能に見える目標に向けて失敗を重ねて困難を克服して行く若き工学部学生達の夢と情熱を興味津々に描いている。

 カンサットプロジェクトは98年11月にハワイで行われたアメリカ・日本・イギリスの3国の大学のシンポジウムでスタンフォード大学のトィッグス教授の提案によって始まった。トィッグス教授は“衛星の基本機能はコンピュータ・電源・通信。この三つを缶の中に組み合わせて打ち上げれば立派な人工衛星になる”と言った。この話を聞いた若い3人の学生はその瞬間、強烈な情熱に駆られた。彼らはその場で缶の衛星の名前も作った。それは‘月下美人’。20代の若者のロマンのこもった名前だった。

 しかし現実は試行錯誤の連続だった。そうなったのは、いわゆる航空宇宙工学の修士の学生なのに実際には半田付けも一度もやったことの無い、現場の初心者であったからである。

 その上に予算まで制限された状況だった。宇宙開発競争の現実は先進国の間ではお金をどれぐらい投資するかの競争である。有人宇宙船の蛍光灯1つが1千万円を越える。空き缶衛星ではそのような高級品は到底考えられない。十分なお金があったら簡単に済む電子回路は直接設計して基盤を作り、半田付けをして完成させた。何かを作る過程は頭だけでは無く自らの手でやらなければならないことを体感した。正規の授業とは別になっていたプロジェクトだったので授業とアルバイトも終わらせた後の作業は徹夜になるのが日常茶飯事だった。

 10ヶ月の強行軍の果てに迎えた打ち上げのX-day。缶衛星は当初の計画のように宇宙軌道への打ち上げは出来なかった。大型の衛星を打ち上げるときの余剰空間に載せて宇宙に送る計画だったがその提案を受け入れてくれる衛星の研究所や企業はどこにも無かった。そこで出た代案がアマチュア同好者グループが製作したロケットに載せて地上4000mまで打ち上げようというものだった。アメリカ、カリフォルニアの砂漠から発射された‘月下美人’はパラシュートを張って落下する途中、温度・圧力などの各種のデータと地上を撮った動画像を成功裏に転送した。

 主人公たちの情熱はここで止まらなかった。彼らは空き缶衛星を作った経験を基に、横・縦・高さ10cmの正立方体の衛星‘CubeSat’を製作して、2003年遂に宇宙空間の820kmの軌道に打ち上げた。真の軌道衛星を打ち上げるのに成功したのだった。大学院生たちが作った世界最小の衛星キューブサットが撮影した動画像は現在も全世界1500人あまりの人の携帯電話に転送されている。

 宇宙専門作家の川島レイの文体はユーモアがあり、あるときは緊迫感にあふれる。打ち上げの現場を描写した場面は既に結果を知っている読者まではらはらとさせる。

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目からカサブタ

「上がれ!空き缶衛星」の感想をWEBに載せてくださったお医者さまがいた。ありがたいことだ。お礼のメールを送ったら、「感激!」というお返事をいただいた。・・・こちらこそ感激でございます。

医学界の常識「傷には消毒、傷にはガーゼ」の廃止を主張し、実践し続けている方だ。ホームページを拝見。まさしく目からカサブタ、いや、目からウロコがぼろぼろと落ちていくのを感じたのであった。

怪我をしたら、まずあの痛くてしみる消毒薬をたっぷりとぬり、そのうちにカサブタができ、それが自然にとれるのが「正しい治癒」だと思い込んでいた。医学界の常識がそうなのだから、素人がそう思い込むのはしかたない。

その「常識」を根底からくつがえす治療を行っておられる。怪我をしたら、汚れをとって、ワセリンをぬったサランラップで覆う。その「湿潤療法」では、消毒薬を使うことも、ガーゼで覆うこともなく、自然な治癒力を引き出すことに成功するらしい。数日で跡形もなくきれいになった皮膚をみて、驚愕。カサブタというのは、治癒がうまくいっていないときに「とまっている」状態なのだそうだ。治癒のプロセスだと思い込んでいた私の目には、カサブタが三重くらいになって張り付いていたに違いない。湿潤療法では、カサブタなどなしに、上皮がまたできてきて元通りになる。

やむをえないプロセスだと思い込んでいることは、実はそうではないのかもしれない。
もっというと、技術が進み、文化が変容していくなかで、プロセスもかわっていけるのだと思う。

たとえば、この治療法はたぶん、「サランラップ」のような材料があってこそできることで、百年前にはこの治療法は無理だったのかもしれない。別の分野で技術が進むことで、不可能だったことが可能になっていく。

こんな常識を覆すようなことが、世界のあちこちでいま研究・開発・実践されているのだと思うと、ワクワクする。生きててよかったと思うのはこういうときだ。そして、あちこちでこのお医者様のようにがんばっておられる方がいるのだと知るのは、本当に心強い。

ますますのご活躍をお祈りしつつ。


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読売新聞書評

少し前になるが、読売新聞書評に「上がれ!空き缶衛星」を取り上げていただいた。評者は佐倉統さん。ちょっと照れることが書いてあって、赤面しつつ、感謝。書評にも人柄があらわれるらしい。メールを送ったら、お返事をいただけて、またまた感謝。

彼の「ミーム」論については、私はまだ理解への途上にあるので何もいえないけれど、「ミーム」というものに、最近ちょっと興味を持っている。

UNISECは技術開発・人材開発に加え、アウトリーチを柱の一つとして活動している。この「アウトリーチ」という言葉が曲者である。これに相当する日本語は存在しない。だから、広報活動や教育活動など外に向けたすべての活動がその言葉で言い表されてしまうことが多い。意味がよくわからないカタカナ言葉は便利なのである。

アウトリーチは価値観を伝えるもの、と私は考えている。もっとふみこんでいえば、「ミーム」を拡散するもの、といえないだろうか。活動を通して、知識や技術だけでなく、たとえば人生に対する姿勢とか、失敗したときの態度とか、そういったものすべてが伝えられる。

スーザン・ブラックモアの「ミームマシーンとしての私」はなかなかおもしろかった。多数のミームが私の脳の中で場所のとりあいをし、生存競争をはかっているという考えからすると、いったい「私」が考えていることというのは、あるのかないのか。「私」が決めているのでなく、強い勢力を持ったミームが私に決めさせているのか。映画を見ても本を読んでも人と話しても、新しいミームが私の脳にどんどん飛び込んできては居場所を確保したりあえなく消えていったりしているらしい。

最近のミームくんたちの中でちょっと心に残って(つまり、ミームに居場所を提供して)いることがある。
「すべてはpreparation」だということ。すべては次にくる未来のための準備だということ。そしてその「未来」がきたら、それはまた次なる未来の準備であって、終着点というものはないのだから、常に動き続けている。

諸行無常。
昔の人は本当にいいことをいう。新しいミームがどれだけ生成複製されて広まっていっても、残るものは残る。人が幸せに生きられるようなミームに肩入れしたくなる。でもそれがどんなミームなのか判断できるのは誰なのか。終わりのない問いのループをぐるぐると回りながら、そのときそのとき最善と思う決断を下して生きている。

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朝日新聞書評

「上がれ!空き缶衛星」を朝日新聞の書評欄で取り上げて頂いた。評者は山形浩生さん。パワフルでユーモアのセンス抜群の方、とお見受けした。「憤り」の中に暖かなものを感じる。こんなふうに書いてもらえる本は幸せものだ。

「教育用核融合炉のある中学校は限られている」とか「遺伝子操作設備も一般家庭にはまだ普及してない」とか、ふんふんと読んでしまいそうになりながら、「えっ?」と我に返る。もう少ししたら、そんな時代が来るのかもしれないが、「教育用核融合炉」という発想がすごい。

直接存じ上げない方と、一冊の本を通して、ほんの少しだけれど知り合いになれることの不思議。決して出会うことのない道を歩いていると思っている人たちと出会う不思議さに似ている。

そしてまた、ごぶさたしている方との再会。この書評のおかげで、しばらくぶりの方からご連絡をいただいた。古い縁がまたつながってくることの不思議。

子供のころ、世界はいつも、不思議なことでいっぱいだった。

どうして花は咲くの?どうして空は青いの?どうして雪はふるの?どうして波はあるの?どうして太陽は毎日来るの?どうして?どうして?

大人になると、不思議なことは「「常識」になってしまう。現実的には、WHYよりHOWのほうがやりやすい。それでもふっとゼロになって世界を見渡せば、やはり世界は不思議なことに満ち満ちている。

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毎日新聞書評

2週間前になるが、毎日新聞の書評に載せていただいた。

評者は森谷正規さん。ありがたいことだ。

日経新聞に瀬名秀明さんも載せてくださっていた。御礼のメールを出したら、なんとお返事をいただいた。こういうのは本当にうれしく、励みになる。

やっぱり、ひとつひとつ、大事にやっていこう。なぜ大事なのかじゃなくて、大事にするから大事なのだ。なぜそれを大事にするかというと、そこは理屈ではなくて感性の問題。


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空き缶衛星の感想文

本は一度出てしまうと、著者の手を離れて、一人歩きする。かわいがってもらえるかどうか、心配でたまらない。ましてや、この本は、私の本というよりは、学生さんたちのがんばりを伝える本なので、評判が悪かったりしたら、彼らに本当に申し訳ない。そんなとき、読んでくださった方から、感想をお寄せいただいた。この方も、一生懸命生きている頑張り屋さんなので、きっと共感される部分があったのではないかと思う。
ご本人の承諾をいただいたので、ここでご紹介させていただきたい。

===ここから===

「上がれ!空き缶衛星」大変楽しく、熱く、読ませていただきました!

手にとった時は、「超小型衛星プロジェクト、理科系熱血ドキュメント」の帯に、衛星、理科系いずれも縁遠い私に果たして理解できる話だろうかと心配でした。しかし、その不安はまったく無駄なものでした。個性豊かな登場人物に話の展開の早さ、あまり知られることのない大学内部の話、日米間の違いなど、私には目新しい話ばかりで、最初からぐいぐい話に引き込まれっぱなしでした。

また随所に当事者たちの生活がちらちらと織り込まれ、(風邪だった、東急ハンズで鉢合わせなどなど)何度も微笑ましい気持ちになりました。

最後の打ち上げのところはドキドキでした。永島さんの「きた!きた!きたー!」のセリフには本の上で一緒に感動さえ覚えました。

大学生といえども、もう立派なプロジェクトものですね。最近たまたま、壊れかけた赤字プロジェクトの建て直しを命ぜられたプロジェクトマネージャーの話(システム系)、「プロジェクトマネジメント」近藤哲生著を読んだのですが、いいものを作るんだ!成功させるんだ!という共通の使命があってか、プロジェクトにかける思い、モノ作りへの情熱とその工程、人が人を助け合い協力する姿など、さすがプロジェクトというだけあって共通点が多いと、頷きながら読みました。

これからはニュースでも衛星関係については見方が変わりそうです。

私にとってのカンサット(熱い体験)は、あっただろうか・・・。人を育てるとはどういうことか、貧乏の大切さなど、ただ感動しただけでなく考えさせられることも多かったです。

ところどころに散りばめられた川島さんの言葉が、素敵なエッセンスとなって読み心地爽やかな、夏の読書に最適な一冊でした。

熱い感動を分けていただき、ありがとうございました!

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書評

ここ数日、カラリと晴れている。
北海道のような天候ですごしやすい。
夜もよく眠れる。
水を欲しているかもしれない植物たちには申し訳ないが、ありがたいことだ。

「上がれ!空き缶衛星」にオンライン書店のbk1で、書評を書いていただいた。評者は松浦晋也さん。UNISECへのリンクまではっていただいて、ありがたい。

人によって読み方は違うだろうけれど、「失敗し、打ちのめされてネバダの青空を見つめる3人の学生の姿」が印象に残る、というところは同感だ。

昨年の、ネバダでの打ち上げ実験で一番印象に残っているのは、九州大のチームだ。彼らは、嬉々としてカンサットを仕上げて、ロケットに乗せて打ち上げたのだが、打ち上げの衝撃で線が切れて、作りこんだ機構は動かなかった。再トライしたけれど、今度はパラフォイルとカンサットをつないでいるひもが切れて、自由落下してしまった。

無残に壊れたカンサットを回収し、黙々と片付けて、きちんと挨拶をしてから乗り込んだ車が走り去るときにまきあげていった砂埃を、沈みつつある太陽のオレンジ色の日差しとともに今でも私ははっきりと覚えている。そして、ビデオに写った「嬉々としてロケット側に手渡す光景」を見るたびに、その後の「悲劇」を知っている私は、胸が痛くなるのである。

アメリカのテロ対策が、アマチュアロケットにまで波及しているらしく、アマチュアロケット愛好者もいろいろとやりにくくなっているみたいだ。今年も無事に打ち上げができるとよいのだけれど。

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