地球交響曲第六番

恵比寿ガーデンプレイスへ。

お目当ては地球交響曲の第六番
一番から五番まで、すべて見ているが、見ながら眠ってしまうほどの気持ちのよい作品ばかり。(つまらないから寝る作品もあるだろうけれど、これは違う。あまりに気持ちがよいので、リラックスできるのである)

第六番のうわさは、かなり前から聞いていた。
シタールの巨匠、ラヴィ・シャンカール先生が出演されるとのことで、これは絶対に見たいと思っていた作品だ。

「虚空の音」を奏でる奏者がいろいろと出てくる。いろんなところで音を真剣に奏でている方々がいる。映像も美しいけれど、その音がいい。

ラヴィ・シャンカール先生の語りがいい。この方はやはりスゴイ方である。61歳のときの娘、アヌーシュカさんに稽古をつけている場面もいい。アヌーシュカさんは、現代インドっ子というふうにも見えるけれど、演奏の腕は確か。世界中で演奏活動をしておられるそうだ。巨匠をお父さんに持つのは、どういう気分なんだろう。

インド古典音楽は、譜面はなくて口伝。師匠から弟子に伝えられる。師匠が歌って、その音をシタールでひろって、その場で覚える。

詳細は、実際の映画で楽しんでいただくとして、私が一番感銘をうけた言葉。

インタビュアーが、「若者にメッセージをお願いします」といったときのことだ。

「最近の若い方は、みなさん賢くていらっしゃるから、私などが言うことはなにも、、、」と謙遜したあと、

I am still learning.

と一言。

86歳(撮影当時なので、今は87歳)の、世界的に有名な、Established と思える演奏家が、そういうのである。

言葉は、誰が言うかによって、重みがまったく違ってくる。意味の深みが違う。

ああ、もう、本当に、私なんぞ、学び始めたばかり、いや、学ぶということを学んでいる最中かもしれない。
心の中にあった、学びをせきとめていた余計な想いはすべてふっとび、ただただ、学ぼう、学びたいと思った次第。もちろん、帰宅してから、シタールの練習に勤しんだのは言うまでもない。

シャンカール先生のほかに、ケリー・ヨストさんというピアニストとロジャー・ペイン氏(鯨の歌を生物学者として研究)が出演されている。

ケリーさんのピアノは、奇をてらわず、丁寧に、丁寧に音をつむいでいて、聞いていて涙が出てくるくらい美しい。演奏会などの華やかな活動は一切せずに、ただひたすらに、「光の音」を紡ぎだすことだけを考えて生きてこられたのだという。

サウンドトラック版CDが販売されていたので、購入。
美しい音楽は、魂を洗ってくれるように思う。鯨の歌も美しい。

5月27日まで、東京都写真美術館ホールにて特別上映中だそうだ。
(その後も、6月8日までは、一番から六番まで上映しているので、時間帯によって見ることができる)

東京に来るのは大変という方には、自主上映会が各地で開催されている。

お疲れの方、美しい音楽の世界に身を浸したい方には、オススメの映画である。

Beauty will save the world.  美しいものを見よう、聞こう、感じよう。
(ロジャー・ペイン氏の言葉)


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上野公園で月見

思いがけずの素敵な月見を楽しんだ。

上野公園の忍ばずの池。
おわんのような半月がくっきりと空に浮かんでいた。

今年初めてのシタールのレッスン。
師匠が歌い、それをシタールで拾う。そして記譜。何度も書き直してやっとOKが出る。

もっとうまくなりたいな、と最近思うようになった。
前は、ひいているだけで楽しかったので、あまりそういうことは考えなかった。
シタールの音は本当に美しくて、下手なりにうっとりできる。共鳴弦が鳴ったりしたら、もうそれだけで満足できていた。

人は変わる。
変わって、当然だ。
成長しているのだから、前と同じもので満足できるはずはない。大きくなれば、大きなサイズの服がいる。

上手になりたいと思えば、上手になる。

そんなことを考えながら、いつもは東京から中央線に乗るのに、ボーっとしていて、山手線に乗ってしまった。ちょっと遠回りになる。

上野でやけに長く停車。
地下鉄に乗り換えるつもりだったが、ここから歩いて帰ろうと急に思い立った。

上野公園の中を歩く。忍ばずの池に街の明かりが反射してとてもきれい。
そして、池をはさんだ向こう側に、半月形の月が、この世のものとは思えないくらい美しく輝いていた。

しばらく立ち尽くして、見とれる。

なんという幸せな時間だろう。
空に浮かぶ月を美しいと思える心模様でいられることに感謝。

つらいときは、何をみても灰色に見える。そういう時期もある。
今は、素直に月がきれいだと思えることが、嬉しい。

そして、私の電車の乗り間違いに感謝。間違わずに電車に乗っていたら、この美しい情景には出会わなかった。

月は、近くて遠い。

今の学生さんたちにとって、アポロは神話だ。アポロ月着陸は話として聞いているだけで、まるで実感はないだろう。その後、誰も月へ行っていないのだから。

今年は、セレーネが月へいく。すばらしい映像をとってきてくれるらしい。
インドや中国でも人を月へ送り込む計画ができている。

月見がますます楽しくなりそうだ。

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清澄庭園へ

小春日和の土曜日。

清澄庭園にて、邦楽の集まりがあって、出かけた。なんと、民族楽器の部でゲスト出演させていただけるとのありがたいお誘い。大きなシタールを抱えて、地下鉄に乗る。いつもはあまり気にしていないのだが、こうしてみると、シタールは大きい。しかも繊細。ちょっとの温度や湿度の違いで音は簡単に狂ってしまう。

気持ちのいいお天気に感謝。雨が降っていたら、タクシーで行こうと思っていた。半蔵門線の新しい駅なので、エレベーターがある。よかった。文明の利器はやはりありがたい。

清澄庭園の中に大正記念館という建物があって、そこが会場。
気持ちのいい庭園をバックに、謡や横笛や鼓など、日ごろの鍛錬の発表会。日本の芸術はやはりなかなかいいもの。たっぷりと堪能させていただいた。

民族楽器は、アボリジニのデジュリデュとシタール。有機野菜のお仕事をしている方が吹くデジュリデュはなかなかの迫力。私のシタールは。。。練習意欲をかきたてていただけて、よい経験をさせていただいた、というしかない感じだったのだが、そのあとの狂言があまりにもおもしろくて大笑いして、そのようなことはすっとんでしまった。言葉もよくわかって、内容も楽しかった。こういうのはいい。

最後の特別ゲストに白拍子という舞。桜井真樹子さんが歌いながら舞う。白拍子は平安時代の舞だそうだが、この方が仏像やら書物を参考にして復元を試みておられるそうだ。つまり、この方が「家元」というわけだ。

その場で懇親会。せっかくなので参加させていただく。横笛がすばらしくお上手だった方の隣にすわる。聞けば、なんとその横笛は自作なのだという。吹いておられるその姿は、まさしく笛と一体だった。ふだんは多忙のサラリーマンをしておられるそうだが、腕前は趣味の域を超えている。

見習わねばと思う人たちがたくさんいてくださるのは嬉しいことだ。日々の激務をこなしながら、これだけの芸を身につけることは可能だということ。

いつか、そんな風に思ってもらえる人になりたいものである。

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タンブーラ

日大のロシア遠征組は、無事に帰国した模様。まずはヨカッタヨカッタ。本当にお疲れ様でした!

日大4年の「ぐっさん」の言動はなかなかのもので、日大のブログを読みつつ、思わず吹き出してしまう。どんなときでもユーモアと笑いはとっても大切。深刻になったからといって、何か解決できるわけではないことは多い。彼が自分を「役者」だというのはたぶんあたっていて、そのキャラは、描き手にとってはありがたいだろうし、読み手にとっては楽しい。「意味不明」「理解不能」の注釈がまた楽しい。マンガのキャラになりそう。

7月をふりかえると、なんという一ヶ月だったのだろうと思う。ここ数年をふりかえると、ほとんどがそうなのだが、それにしてもこの一ヶ月はすごかった。こういうときは、忙しさにまぎれて、あちこちに不義理と失礼を重ねているやもしれず、もしそうだったら該当者の皆様、ごめんなさい。

今回のロケット打ち上げ失敗という残念な経験を経て思うのは、タンブーラ的存在の重要さである。前から少しそうかもしれないと思っていたのだが、ちょうど怒涛の1週間が終わってシタールのレッスンに行ったときに、タンブーラを弾かせていただいて、やはりそうだろうと思った。(打ち上げ失敗が起こる前のことだが、タイミングがちょうどよかった。めぐり合わせに感謝)

タンブーラというのはインド音楽ならではの不思議な存在。シタールはメロディーを奏で、タブラ(太鼓)はリズムを刻む。タンブーラは、メロディーもなくリズムもなく、ただ初めから終わりまで途切れることなく、その場というか空気を作る。(インドの楽器については、こちらのHPに詳しく紹介されている)

タンブーラはリズムを仕切ってはいけないし、メロディーにしゃしゃり出てもいけない。空気のようにそこにあることを感じさせず、しかしなくてはならない存在。シタールやタブラをよく見ていて、走りすぎていたら抑え目に、抑えすぎていたら少し走らせる。波の音のように、ずっと聞こえているが、ほとんど気にならない。そして、「基音」を常に奏でているので、シタールの音が狂ったりしたときには、すぐに元に戻すことができる。

UNISECは、つかみどころがないとかよくわからないと言われることが多い。もしかすると、タンブーラ的な役割を持っているのではないだろうか。

タンブーラ奏者は、「アノ人は何をしているのか」と知らない人には言われるのだそうだ。場を作るのはとても重要なことなのだけれど、「音楽にはリズムとメロディー」という固定観念があると、それ以外の大切な役割があることがなかなか理解できない。

宇宙プロジェクトには、いつも大きなリスクがある。ロケットの打ち上げ失敗は、確率が低くなることはあるだろうけれど、ゼロになることはきっとない。ちゃんと打上げてもらえたら、運がよかったのだと思ったほうがいい。

何年もの努力が水泡に帰すことは、きっとこれからもあるだろう。
そんなとき、タンブーラは黙って弾きつづけよう。そうして何事もなかったように、次の曲を始められるような場と空気を整えよう。

14個のキューブサットを失った10の大学の皆さんや、初めての衛星だったというベラルーシの方々など、何事もなかったかように次のプロジェクトに進んで、今度は大成功されますように。そうできるような物質的な恵みがありますように。もう一度打ち上げというのは、経済的にそれほど簡単なことではない現実が、少なくとも日本の大学にはある。失敗は「想定内」で、すぐに次の手をどんどんうっていけるような体制が望まれる。

そのためにできることは何だろう。タンブーラを弾くということは、ここでは具体的にどういうことだろう。
微力ではあっても、無力であることはありえない。痛みはいつも、何かを教えてくれているはずなのだ。

つらいときは、じっとしているのもいいが、動いてみるのもいい。「ひにちぐすり」(時の薬)がきいてくるまで、痛みにじっと耐えているのも悪くないが、痛みを忘れるようなことをしてみるのもいい。

おぼろげにすべきことが見えてきそうな予感。


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響きあう世界

中野孝次先生の「ガン日記」。食道がんの宣告を受けてから、家族にも内緒でつけていた日記が発見され、文芸春秋で発表された。

・・・ということはまったく知らなかったのであるが、新大阪の駅でふと、文芸春秋の背表紙が目に留まり、手にとって読んだ。こんなことはめったにないのであるが。

本日、シタールのレッスンで大阪へ。5年くらい通っているけれど、雨だったことは、まずない。でも今日は雨だった。いつものように指ならしをして師匠が来られるまで、練習をする。

1時間後くらいに師匠は姿を見せた。
そして、今日はシタールはほとんどさわらずに終わった。

音は人なり。

私の出す「音」に師匠は何かを感じられたのだろう。
こういうとき、たぶんどう教えても、何を弾かせても、音楽にはならないと思われたのか、インド音楽とは何かという話から、「最近、どうしておられるの?」という話に。

シタールは共鳴弦があるのが特徴で、弾き手も予想しない音が響きあう世界が広がる・・・はずの楽器。

最近は・・・実は、芸術のスピリットを切り捨てたような生活なのである。
文字通り、「事務ロボット」化して、とにかく仕事をこなしている。企画をすれば、事務仕事は出てくる。豊富なスタッフがいるわけではないから、結局は自分でやることになる。しかも、6月は決算月ときている。7月には総会があり、海外からも参加者のある地上局のワークショップもある。

アジアの国から会議参加者を受け入れるには、ビザの問題があるのは知っていた。インビテーションレターを出せばよいのだけれど、国によっては、保証人を立てなければならなかったりする。そのうえ、現地の日本大使館でいろいろ言われるのか、何度も修正が入る。忍耐力を養うチャンスと考えるには、ややエネルギーを要する。淡々と、あるいは粛々とやっているうちに、「インド音楽のセンス」は消えていくのだろうか。どんな状況でも闊達さ、自在さを失わないしなやかさを養おう。

「地球はひとつ」という言葉とは裏腹に、国境は厳然としてある。メールのやり取りをしているときには何も感じなかったものが、物理的な行動にうつそうとすると、見えてくる。

その人がどんな人かということよりも、どの国のパスポートを持っているかで、移動の自由度は大きく違うのだ。たとえば、日本のパスポートを持っていれば、親のすねかじりであっても苦もなくできてしまうことが、そういった国の国家機関で働く人でもできない不条理。

そして帰宅して聞いた留守番電話。
C型肝炎を患っている父が、もう何度目かの肝がんの処置をするために何度目かの入院をするという。彼がC型肝炎ウイルスのキャリアになったのは、たぶん20代の後半。胃潰瘍で、輸血をしたのが原因らしい。もう何十年も、C型肝炎ウイルスをかかえながら、ケアをしていただきながら、ここまで元気にやってきているわけなので、ありがたいと思わねばなるまい。

中野孝次先生の遺稿と父の入院の知らせ。
悲しいシンクロととるか、励ましのシンクロととるか。
もちろん後者ととろう。選択肢があるときは、うっすらとでも光が見えるなら、そちらの方向に歩こう。

響きあう世界。
どうせなら、善きこと、嬉しきことが響きあって広がっていくといい。

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きつねとたぬき

新大阪の駅構内の立ち食いうどん屋。
関西のうどんはおいしい。

久々のシタールのレッスン。
今月は、半月以上海外にいたし、帰国してからも忙しくて、練習があまりできなかった。
滑り出しは悪くなかったが、やはり、めっきはあっというまにはげる。久々の愛のムチ。こんなに弟子のために必死になってくれる師匠に出会えたのは奇跡的。大人になってこんなに叱ってもらえるのはありがたい。幸運に感謝。

指をけがしてタブラがたたけない生徒が来た。師匠はわざわざガマックという「音階つきの打楽器」を用意して待っていた。人差し指が使えなくても使える楽器だ。音楽に対して、また、人に対しての誠実さが伝わってくる。そして、シタールとあわせての練習。楽しい時間だが、私の指は思うように動いてくれない。芸の道は厳しい。でも、なんとかここを通り抜けて自在に弾けるようになりたい。

「自分で場の雰囲気を作りなさい」という師匠。レッスンが終わってしばらくたつと、その意味がじわじわとわかってくる。でも、「わかる」と「できる」は違う。わかったからできるというものでは決してない。「わかる」は「できる」に近づくための第一歩に過ぎない。

日帰りで大阪へいくので、行きも帰りも駅弁。でも、こういう日はあったかいものが食べたくなる。そんなとき心にしみるのは、あったかうどん。時間がなくても食べられる。きつねうどんがお気に入りだ。

ちょっとした発見。
大阪では、「きつねうどん」は、あぶらげがのったうどん。そして、「たぬきそば」は、あぶらげがのったそば。
私はずっと、「きつね」とは、あぶらげのことで、「たぬき」とは「てんかす」のことだと思っていた。だから、

きつねうどん=あぶらげがのったうどん
きつねそば=あぶらげがのったそば
たぬきうどん=てんかすがのったうどん
たぬきそば=てんかすがのったそば

というふうに考えてきた。しかし、ここでは「てんかす」がはいったうどんは、「あげたまうどん」という名前を持っていて、たぬきうどんというもの自体が存在しない。

常識とはこんなもの。時と場所によって大きく違う。
一人納得して新幹線に乗った。

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雨の日曜のシタール

雨が降って寒かった日曜日、大阪へ出かけた。
東京は寒かったので、厚手の長袖を持って新幹線に乗ったのだが、降りてびっくり、こちらは蒸し暑い。太陽もかいまみえている。天気予報では台風だったけれど。

この一週間は、ストレスフルだった。睡眠不足のままに次々としなければならないことがあって、消耗した。

締め切り直前の仕事の目鼻をつけたところで、新幹線の時間。一本乗り遅れたおかげで、15分ほど、本屋でぶらぶらする時間ができた。こういう「間」が、大げさでなく、命を救ってくれるのかもしれない。もっといえば、乗り遅れたということに腹を立てるのでなく、「間」をいただけてよかったと思える心持ちが、寿命を長くしてくれるように思う。

シタールのレッスン。
ビンパラシという、遅い午後に演奏されるラーガ。
インド音楽は、「時」を体現するものであり、朝のラーガ、昼のラーガ、夜のラーガ、深夜のラーガ、というように、ひくべき時間帯が決まっている。シタリストは、「時の体現者」なのである。

残念ながら、私がひけるのは、夜のラーガと遅い午後のラーガのみ。つまり、他の時間帯には演奏できないということである。インド人でも、このことを知っている人はあまり多くないという。

夢中になってひいていると、ストレスが少しずつほぐれてくる。
タブラ奏者が途中から来て、加わる。呼吸をあわせるのがけっこう難しい。自分がひくのに精一杯だと、相手を思いやるゆとりがもてないように思い込んでしまっている自分を発見。ここでも「間」がとても大事。

「間」は、意識して持つものなのか、自然にできるものなのか。
自然にできている「間」をわざわざつぶして暮らしているような気もしないでもない。

スローライフという言葉がはやっている。
いまのところ、それを実践できそうにはないのだが、5分や10分の「間」をじっくりと味わうことくらいならできそうだ。

小さなところからはじめたい。
「間」を大切にする生活。

生きることは、楽しいこと。
いつも、そんなふうに感じながら生きたいものである。


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サレンダー

シタールのレッスン。

特殊能力「忘却」を身につけているためか、習ったはずのことを覚えていない。
忘れては覚え、覚えては忘れるという繰り返しが芸を磨いていくに違いないと、勝手に納得。

最近受けた呼吸法の合宿の話から、インドの話をいろいろとする。

「サレンダー」
降伏するという意味もあるけれど、要するに自分を無にするということらしい。
インドでは、よく使われる言葉なのだそうだ。
封建社会では、そう思っていると生きやすいということもあるだろう。
あるがままに受け入れる。
他人も状況も、あるがままに受け入れる。
もちろん、自分自身もあるがままに受け入れる。
我が強いと、なかなかそうできない。

からっぽになる、ゼロになる。
レイランドで大切にしたいことだけれど、仕事を抱え、締め切りに追いまくられていると、なかなかからっぽになれない。

サレンダー。
吸収力が違う。からっぽのところには、いくらでも入ることができる。
今日は、気持ちを「サレンダー」モードにしてみる。心なしか、師匠の音についていきやすい。

音は人なりという。
いらいらしていると、そういう音が出る。
レイランドで奏でられる音楽は、静かに心に染み入るような、愛に満ちたものであってほしい。

心をこめて。

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シタールのレッスン

日曜日に、シタールのレッスンへ。
師匠は大阪在住なので、新幹線通学である。

快晴。暖かな春の日差しの中、今日はインド大使館で「桜祭り」がある。満開の桜にインド料理。よだれが出てくるのをおさえて、レッスンへ。月に一度は必ずいくことにしているので、行かねば。お祭りの誘惑に負けず、新幹線に乗る。楽しそうな家族連れで満席。

練習不足は否めない。ここのところ、忙しい日が続いて、練習の時間が思うようにとれなかった。練習しないと、指がまずだめになる。シタールは、アナログ楽器で、指に負担を強いる。私の指はあまり強いほうではないので、すぐに皮が破れてしまう。練習をきっちりしていると、指もそれなりに硬くなるのだけれど、さぼるとすぐに元の弱さに戻ってしまう。

鍛錬していないとすぐにだめになるのは、筋肉もそうだし、頭もそうだ。踊り続けなければ踊れなくなってしまうのは、バレリーナに限らない。

しばらく、個人レッスンで稽古をつけていただいたあと、タブラの生徒が来て、シタールとあわせて練習する。すればするほど、力不足と練習不足を感じて情けなくなる。ただ、音楽は楽しい。ひいているうちに、楽しくなる。

ぐったりとした帰りの新幹線の中で、練習時間を作り出すことを誓う私であった。

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